お盆前後のこの時季が、ある意味で一番夏らしい気がする。
でも、すでに、どことなく秋の気配も感じたりする。
・・・のんびりしてるうちに、夏も終わっちゃうってことね。
ってことで、急いでお題行きますか。
今日のお題は、
「困難」(thanks to のっちさん)
どーんなにこんなんで くじけそーでもー
「困難」という言葉でついつい思い浮かんでしまう、「愛は勝つ」(KAN)。
年がばれる。
・・・本題行きます。
一番最初に「困難」と聞いて思い浮かんだことが、実は「生きること」だったりするので、その辺のことを書いてこうと思う。
生きること。
生活のためにお金を稼ぐとか、そういう比喩でもなく、「自分らしく」とかそういう形容詞が( )付で足されてるわけでもない。ただ、生きる、ということ。
それがすごく難しいことだと感じてたとこがあった。
たとえば、朝目が覚めたふとんの中で、何の前触れもなく「この先絶対生きていけない」という絶望感に襲われたりとか、あるいは、夜1人でぼけっとしてると、ふと「もう、いいかな」と思ったり(どのあたりが「もう」なのか、そう思ってた瞬間でさえ、分からなかった)。
まぁ、私の場合、具体的には死にたくなるようなことも、死ななきゃならないようなことも、何もないし、その前に死にたいわけじゃない。ただ、生きてくことがものすごく難しく思えることがあるというだけだ。
一般的に困難に直面したとき、取りうる選択肢は3つ。乗り越えるか、その前で立ち止まるか、逃げ出すか。
そりゃまぁ、できることなら乗り越えたいけど、条件反射で逃げ出しそうだし、それを避けようとしたら向かってく勇気もなくて、思わず立ち止まってしまったりとか、そんなこともあるよねぇ。私の場合、たぶんだいたい立ち止まってる気がする。困難はいつまで経っても去りません。
それじゃ、「困難」=「生きること」だった場合、どうなるか。
まぁ、そう簡単に逃げ出したり、立ち止まったりするわけにはいかない。生きることから逃げる。生きることの前で立ち止まる。それはつまり、生きないことだから。
でも、考えてみると、乗り越えることは考えてみたら、案外簡単かもしれない。だって、生きてりゃいいんだから。
それ以上にできなきゃいけないことなんかない。ダメ人間だろうが、弱かろうが、バカだろうが、それは何の関係もない。生きることが困難なら、困難を乗り越えるっていうことは、つまり生き続けること。
ってことは、1日の終わりに、自分を誉めていいわけだ。
生きることってこんなに大変なのに、今日一日生きた自分ってばエライ。
そうすると、誕生日なんか大変よ。
また、1年も生きちゃった。自分スゴイ。
で、なに、もう30年以上も生きてるの? めちゃくちゃスゴくない?
もう、誉めまくり。
でも、人には自慢できないね。周り中スゴイ人だらけだもんなぁ。
つうか、バカ? って思ったっしょ。
いいんだって、バカで。生きるか死ぬかの瀬戸際で、手段なんか選んでられるかっての。
まぁ、大げさだけど、生きてる以上生きてかなきゃならないと思うわけよ。少なくとも、生きてくことが難しいような気がするってことぐらいで、死ぬわけにゃいかない。
そもそも、戦争もない豊かな国で育って、大病とか貧困とか飢餓とか紛争とか、そういう文字通り、生きてくことが大変な状況も知らないし、親に捨てられたとか、友達がいないとか、誰かに裏切られたとか、理不尽な目に遭わされたとか、そういう心の傷があるわけでもない。そういう中で、生きていけないような気がするっていう、理由も意味も分からない。
ということは、だ。つまり、この生きていけないような気がするってのは、そこに何かしらはっきり「困難」と呼べるものがあるわけじゃなくて、そこに何かがあるような気がするってだけで、本当にあるかどうかも分かってないってことか。
・・・脳内困難?
あながち否定もできないねぇ・・・。
確かに昔からそんな習性がなきにしもあらず。実際に注射してるときより、注射を待ってるときの方が怖かったりとかしたもんなぁ。
なんか、その習性を直す方が困難な気がしてきた。
・・・歌うか。
しんじることさ かならず さいごに あいはかつー(KAN「愛は勝つ」)
コメント (3)
お初でございます。じふです。
>「困難」=「生きること」=「死んでなるものか」=「乗り越えてやる」=「オバタリアンに変身~」
かなぁ。
「住宅ローン」・「親の老後」・「ワンコを飼い始めたこと」
人・弱いものを支える立場になって実感しつつあります。
何かを築こうと頑張ってる間は「困難を乗り越えるのに必死」です。
登記簿の抵当権抹消まで死んでなるものか~!
投稿者: じふ | 2005年08月30日 19:10
日時: 2005年08月30日 19:10
どうも。お久しぶりです。キクリンです。
実は今転職活動をしています。なのでこの手のお題には反応してしまいがち。
アタシはもうホントずっとずっと言ってるように、
学生の頃から英語を使うことの出来る仕事に就きたくって気付けばこんな年になってしまいました。
そのために「生きる」のであって、他のことはあんまり考えてなかったような今までの人生でした。
でもこの所色々活動をしたり、色んな人に会う事によっていかに自分が狭い世界でしか生きてこなかったか思い知ってしまいました。
というか、英語1つとってもどんなに自分が努力や経験不足かっていうことを。
CONさんの文章を読んで少し気が楽になったかな。
ありがとうございます。
投稿者: キクリン | 2005年08月30日 22:31
日時: 2005年08月30日 22:31
>じふちゃん
いらっしゃい。
そうだなぁ。
私には必死さが足りないんだと思います。たぶん。
・・・家、買うか(違)
ま、なにはともあれ、生きとります。
でも、オバタリアンには変身したくないなぁ(笑)
ありがとう。
>キクリンさん
お久しぶりです。
こんな文章でも、
ほんの少しでも気が楽になったと
言っていただけるのは、うれしい限りです。
ありがとうございます。
経験は例え足りなくても、ゼロではないと思います。
積み重ねてきたものも必ずあるはずです。
足りない分はこれからなんとかするとして、
今足りないものは足りないわけだし・・・
と結局、のんびりしてしまうのが、私の悪い癖ですが、
そんなことも時には必要かな、と。
また、来てください。
投稿者: CON | 2005年09月01日 23:12
日時: 2005年09月01日 23:12