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つれづれなるままに5

おっと、今15:54。

ふと思ったんだけど、今月あと1週間ぐらいだよねぇ。でもって、校正やらないかんのよね。ってことは、今日のうちにお題終わらせとかないと、まずいんでないの。まとまった思考能力がありませんとか言ってる場合じゃなくて。
そうね。そうだなぁ。
あのね、って、ここで書くことでもないんだけど、ほぼ仕様的には固まってるんだよね。ただね、イメージがわいてこないんだなぁ。イメージはあとでいいんだけどね。

あぁ、もう。
今日の帰り際にちょっと何とかしてみよう。

話変わって。

「下流社会」っていう本が今ベストセラーになってるらしいね。
ということで、少し前にちょっと手にとって見たところ、今の精神状態では読破できないだろう、ということで、また元に戻してみた。
というのも、この本、団塊ジュニア世代のことを書いているし、しかも、巻頭にある、下流の条件みたいなものを見てみたところ、なんだかほぼ当てはまりそうな勢いで。まぁ、落ち着いたらちゃんと読んでみようと思うけど、まだ読んでないので、その本の内容自体は云々できない。ただね、その下流の条件の中に、「自分らしさを何よりも大切にする」というようなことが書いてあったのね。
その、自分らしさってのが、ちょっとひっかかった。これだけは自分はちょっと違うかも、と。
というか、その前からずっと引っかかってるんだけど、らしさってなんだよ、ということなのよ。
もちろん、自分らしさというものを的確に掴んでる人もいるとは思うんだけど、そうでない人もたくさんいるような気がして仕方ないのね。私自身もその1人かもしれないけど。
自分らしさっていうものが、どこかにあって、それを見つけ出す、みたいな文脈を結構見かけるけど、それはなんかそもそもの誤解なんじゃないかって思うんだよね。
らしさは、目的じゃなくて、結果なんじゃないかって。
要は、それまで自分がどう生きてきたかという積み重ねからしか自分らしさってものは生まれないということなんだよね。
それから、自分らしさというのは、必ずしもいいものであるとは限らないと思うんだよ。
それは、たとえば、私の場合、決断力があってバリバリ行動するのと、優柔不断でうじうじ悩んで結局何にもしないのと、どっちが自分らしいかっていうと、どう考えても、後者。でも、じゃ、それがいいかっていうと、違うと思う。
私は、なるべくなら前者になりたいと思うし、それが苦にならない人間である方がいいと思う。だけど、実際はそうじゃない。もし、明日から私がそういう人間になったら、周り中の人間が驚くね、きっと。どうしたの、って。
なんかの拍子でそうなる可能性はあるし、なれないと決まってるわけでもないけど、現時点で、私はそうじゃないし、らしい、という基準で言えば、完全に後者であるにもかかわらず、好ましいのは前者だと思ってる。
でも、自分らしく生きたい、といった場合、いくら自分らしいといっても、優柔不断のまま生きたい、という意味は含まれない。たぶん。
だからといって、自分らしく生きたい、という願いを否定する気はない。私も同世代だし、その気持ちは分かるし、たぶん自分の中にもそういう気はある。
ただ、どこかから、それはなんか違うなぁって思い始めたのね。
いや、だから、らしさはあとからついてくるものだからね。自分がやりたいことをやる、とか、人と違うことをやる、ということは、自分らしく生きる、ということは、イコールじゃない。
やりたいことをやっているうちに自分らしさが見えてくることはあるかもしれないけど、逆じゃない。
それに、自分らしくありたいという願いは、その自分らしさの中身が具体的じゃない限り、ものすごく抽象的で、どうしたらいいか分かりにくい願いなのね。
たとえば、自分らしくあるということが、音楽をやることだと思えば、音楽をやればいいんだけど、漠然と音楽たって、歌うことなのか、楽器なのかとか、あるいは、ロックなのかクラシックなのかとか、そりゃ、音楽ひとつとってみても漠然としてる。それでも音楽なら音楽、というものがあれば、なんかとりあえず手元にあった、縦笛を吹いてみるとかそんなことでもできるかもしれないけど、でも、その入り口さえ見えなかったら、それはどうしようもない。
ただ、自分らしくありたい、と願っていて、その自分らしさが分からなければ、それは、このままじゃいけないけどどうしたらいいか分からないということでしかない。
そしてそれは、ストレスにしかならない。
前に、スガシカオさんのラジオ番組で、「自分はやりたいことがないんですが、どうしたらいいですか」というような相談があったとき、それに対してスガさんは、「やりたいときが見つかったときにすぐ動けるように、バイトをしてお金をためてください」と即答してた。
でも、ほんとそのとおりだわ、と、それもしてないような私でもそう思った。

ちなみに、スガさんは、何かあったら一度相談してみたいぐらい、的を得た回答をする人で、たまに分からなくても、ごまかしたりしないで、分からないとはっきり言ってくれるので、非常にいいんだよね。

そんなことはともかく、だから、そういうことなのね。自分らしさを探して、変なとこに迷い込むぐらいなら、いつか見つかったときのために(それはたぶん自分の中にあると思うけど)準備をしておく方がはるかに現実的だ。
ただ、その準備は、それほど自分らしくはないだろうけど。

ということを思ってる。
たぶん、話題が微妙にずれてるような気がするけど、そのまま続けるね。

自分らしさ、と似たような言葉に、本当の自分、というのがある。
用例は、

両親は私のことをいい子だと思ってるけど、それは本当の私じゃない。本当の私はもっとダメな子なの。

みたいな感じかな。
このままのことは思わないけど、似たようなことは、正直考えたこともあるんだけど、でもさ、と思うのよ。
じゃ、いい子のふりをしてるのは誰なのよ。

それは明らかに自分じゃん。
、両親に嫌われないように、とか、理由はなんであれ、そうやって振舞っているのは、どう考えても自分なんだよね。
人格が分裂するような病気もあるわけで、一概には言えないけれど、そうじゃなければ、自分。
それが、どんな自分であれ、自分なのね。
しつこいか。
そうすれば、見捨てられないとか、喜んでもらえるとか、そういう計算をして、そう振舞ってるだけの話。いやね、もちろん、当人にそんなこと言っても、苦しいものは苦しいんだけど、そんなに苦しいならやめちゃえばいいのね。
そういうふりをし続けることと、それをやめて楽になることと、どっちが自分にとっていいのかを考えればいいというだけの話。
そして、もうひとつ。もし、ほんとに自分がいい子じゃなくて、でも、いい子のように振舞えるんだったら、それはそれでひとつの才能だと思うんだよね。だから、別にそのことを恥じる必要はない。ただ、そのために自分が壊れそうなら、やめた方がいい。たとえ、予想通り、誰かに見捨てられたとしても。

で、本当の自分、っていうことに戻るけど、要は、だから、本当の自分、なんて存在しないんだと思う。
あるのは、本心であったり、理想であったり、欲求だろうと。

自分は、本当は○○だと思ってる。
自分は、今理想とかけ離れたところにいる。
自分は、○○したい。

本当の自分、というのを突き詰めてみると、こういうところに行き着くような気がする。

まぁ、これが理屈として通用するのかどうか、分からないけど、でも、どこかに本当の自分を作り上げて、自分をどんどん分割してしまうよりは、本当の自分なんかなくて、これもあれも全部自分だと引き受けてしまった方が、精神衛生上はいいかな。

ってとこで、時計を見ると、17:08だ。
あと2時間だな。

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2006年01月22日 19:29に投稿されたエントリーのページです。

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