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救いのない仮定の話

頭の中で考えてることがすらすらと文章になったらいいのになぁ、とか思ってるんだけど、ちっともそうはならない。
ま、当たり前だけど。

今日はちょっと変な話を書いておこうと思う。読んであんまり気分のいい話でもないと思うので、重い話がイヤな人は読まない方がいいかもしれない。

たとえば、自分があるところに逃げられないように捕まえられてるとする。手元にはボタンがひとつ。そこに向こうから人が来る。その人が私のところから2mの地点に書かれた線を踏み越えた瞬間に、私は殺されてしまう。助かるためには、私はその人が直線を踏む前にそのボタンを押さなくちゃいけない。ボタンを押すと、その人は死ぬ。

その時、私はどうするか。

もちろん、いろんな条件も絡んでくるかもしれない。
たとえば、向こうから来るその人が必ずその線を踏み越える場合と、直前で引き返す可能性がある場合じゃ、迷い方が違うだろうし(その人がどんな人かってことも重要だろうけど、何らかの事情でそういう役目を負わされた普通の人、ということにしとく)。

私は、どんな状況でも自分が殺すか殺されるかの選択なら、殺される方を選びたいと思ってる。できることなら、だけど。
殺されるような場面に直面したこともないから、その時に自分の心理状態がどうなるか、全然分からない。だけど、絶叫しても発狂しても泣いて許しを乞うたとしても、そのボタンを押さないでいられる人間でありたいと思う。願わくば。

自分が殺すか殺されるかなら、実際はともかく想像の中では、迷わず殺される方がいいと言える。
問題は、ボタンを押さなかったときに、殺されるのが自分以外の誰かだった場合だ。
それこそ、向こうから来る人と、自分の代わりに殺される人と、それぞれとの関係性によるとは思う。
だけど、どちらとの関係も同じように遠かったら、私はどうするべきなんだろう。もし、私が代わりになれるものなら、代わりになれる人間でありたい。願わくば。
もし、代わりになることが不可能だったら? ボタンを押すべきか、押さざるべきか。
現実的に一番考えられるのは、代わりになれるかどうかに関わらず、目と耳を塞いでうずくまって、目を開けたら何もなかったことになってるように祈りつつ、ただことが終わるのをじっと待つ、ということか。

・・・それだけはしない人間でありたいなぁ。願わくば。

どっちにしても、そこは未だによく分からない。答えが出る問題なのかも分からないけど。
誰も殺したり殺されたりしない可能性を最後まで考えるぐらいはできるようになっておきたいね。

しかし、よくもまぁ救いのない仮定の話を考えるもんだと、自分でも思う。
こんなこと考えてなんの役に立つか、それも分からない。

そんな場面に遭遇しないことを祈るよ、心から。

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2007年01月24日 00:41に投稿されたエントリーのページです。

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