メイン

5周年特別企画 アーカイブ

2005年04月17日

[5周年特別企画 01] 最近ごぶさたしています

さて、今日から5周年特別企画として、いただいたお題を書いていきたいと思います。
毎度のことではありますが、本文については、いつもの独りごとの調子で書いてありますので、ご了承ください。

ってことで、第1回目のお題。

「最近ごぶさたしています」(thanks to sallyさん)

タイムリーといえば非常にタイムリーなこのお題。ひねりがなさ過ぎで申し訳ない感じなんだけど、最近ごぶさたしているものといえば、「友達」だね。
ほんとに、いろんな人たちにごぶさたしまくりで、そろそろ挨拶回りに行かねばならない、と思ってたところ。ネットでも、実生活でも、向こうからもらう以外は、最低限の連絡しかとってなかった。
暇がなかったというよりも、余裕がなかったというのが正しいんだけど、ようやくここに来て、多少気力が復活してきて、みんな元気かと思うぐらいの余裕はでてきたらしい。というか、あんまり人に会わないでいると、いい加減会いたくなってくるもんだわな。

それに、ふと何年単位で会ってないことに気づくと、みんなどうしてるんだと、不安になってくる部分もちょっとある。うっかりごぶさたしすぎると、2度と会えなくなってしまうことだってあるから。連絡を入れづらくなったりとか、急に遠くに引っ越してしまったりとか。それでも、何かしら会える可能性が残っていればいいけど、それすらなくなってしまわないとも言いきれない。
だから、なるべく「ごぶさた」は少なくしたい。

とは言っても、特に付き合いが10年以上ぐらいになると、それぞれに生活やら事情やらいろいろあって、1年に1度でも会えればいい方だし、それぐらい会えれば安心というか、コミュニケーションとしては充分という部分はあるんだけど、ここのところはそのペースも守れてなくて、最後に会ったのいつだっけ? という人ばっかりという状況になりつつある(記憶力が衰えてるだけだったりとか・・・?)。

そんなわけで、「最近ごぶさたしています」と、まずはあちこちにメールを入れてみようと思ってる。
ていうか、連絡くれ。

2005年04月24日

[5周年特別企画 02] 独りごとの内容について

ひとつ目のお題を書いた後、さっそくごぶさたメールを一通書き、今日会ってきた。
少なくとも1年以上は会ってないのに、友達曰く「この違和感のなさはなんだ」。

てなことで、2回目。
今日のお題は、

「独りごとの内容について」(thanks to Lancamentoさん)

内容ねぇ。
内容は、な・・・やめとく。
でも、独りごとに何書いてるかっていうと、「そのときそのときで頭にあること」っていうだけのことで、それ以外にはなんもない。
だいたい「独りごと」というものを作ったのが、ホームページづくりのために買ってきた本に、「毎日更新するためには日記を付けるといい」みたいなことが書いてあったからというだけのことで、言っちゃえば、毎日更新できりゃそれでよかっただけだという噂もあるしねぇ。
それに、CON's Worldというホームページそのものが、「思ってることを思ってるように」という、内容についての決まり事なんか何もないようなもんだから、まぁ仕方ないやね。
とは言っても、もう5年も前のことだし、始めた頃に自分が何を考えて書いてたのかは、正直なとこあんまり覚えてない。ただ、記憶にある限りは、なるべく自分の思ってることをありのまま書くことを目指しては来たと思ってる。でも、目指してるだけだからね、できてないことも多々あるけど、それでも最低限、思ってもないことだけは書いてないつもりではある。

そんなふうに、深いテーマもなんもなく続けてきた独りごとではあるけど、そうは言っても、ひとりの人間が5年間「思うこと」を書き続けてれば、内容にもなんらかの変化があるよねぇと、これまでのものをざっくり見返してみた。でもさぁ、あんまり変わってなかったねぇ。
確かに、多少なりとも環境や心境の変化ってものはある。あとは、文体も時々で少しずつ変わってる。だけど、もっと根本的に、人間として考え方にもっと深みがでてきたりとか、そんなことがあってもよさそうなもんじゃんか。それがないね。いや、あるかもしれないし、むしろあってほしいんだけど、思った以上に変わってない感が強かった。
まぁ、小学生の頃、つくば万博で、21世紀の自分に宛てた手紙で「今よりマシになってるかな?」とか書いてたからね、見ようによっちゃ、その頃から変わってないってことだもんね。

だから、これからも変わらないことにした。
いろいろ考えてわけ分からなくなったりもしてたんだけど、公にできる範囲で、制限をなるべくなくして、かつ適当に書いていこうと思う。しんどいときには「しんどい」って書くし、書くことがないときはそう書く。

結局、これまでもこれからも、独りごとには「私がそのとき思ってること」しか書かれてないと、そういうことだね。

+++++++++

追記(05.5.21):

過去の独りごとはこちら。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/con/monologue/index.htm

2005年04月25日

[5周年特別企画 03] 車

祝・ヤクルトスワローズ古田敦也選手、2000本安打。

と思ってたら、JR福知山線での脱線事故。詳細はよく分からないけど、50人の方が亡くなったとか。責任の在処じゃなくて、原因がきちんと解明されるといいんだけど。

てことで、3回目。
今日のお題は

「車」(thanks to blue moonさん)

車かぁ。車を持って、今年でちょうど10年だね。
すっかり乗る機会少なくなったけど、それでも、ある意味必需品かもしれない。一度車を持ってしまうと、いつでも好きなところへ行けるという、ちょっとした余裕というか贅沢な感じがなかなか捨てがたくなってしまう。

どこかに行きたい!! というタイミングがあって、そのときにあれこれ計画を立てるのは結構めんどくさい。でも、車があれば、ちょっとその辺を1時間ぐらい走ってくるか、とか、とりあえず海を見に行こうとかできるし、どうしてもというときには電車が走ってない時間でも動かすことができる。その辺がいいよね。
あとは、車内のあのなんとなく遮断された感じが、好きだね。ほんとに密閉された空間は苦手だけど、全面ガラスで見通しいいし、窓開ければ風も入ってくるし、なおかつプライベート空間の雰囲気があるという。もう言うことございません、って感じだわ。
その感じが、案外考え事に向いてるんだよね。あんまり込み入ったことを考えるのは無理があるし、渋滞だったり、高速で急いでたりとか、曲がりくねった山道だったりとかでも、厳しかったりする。でも、快適なスピードでスムーズに走ってるときには、なんとなくひっかかってることを漠然と考えてると、整理されてくるような気になることがある。
歩いてるときでもそうだけど、心地いいリズムで移動してると、きっと頭も気持ちよく動くんだろうなぁ。それと、運転してると適度な集中力が持続されてるということもあるのかもね。

つまり、車好きというより運転好きか。
そういえば、小さい頃から、遊園地の乗り物の中じゃゴーカートとか自分で動かすものの方が好きだった。自分の思い通りに動かせる感じが、好きなのかもしれない。

その私が、一年中で一番好きな季節が、まさに今。この新緑の頃がなんといっても気持ちいい。
だいたい新緑ってのは、見てるだけでいいじゃないですか。あのまさに萌える(本来の意味でね)緑の中、適度にカーブのつづく道を、他の車に邪魔されることなく適度な速度(時速60kmぐらいかな)で走るときの気持ちよさといったら、考えただけでうれしくなってくる。

そうそう今週末信州行くですよ。桜が散ったか、少し残ってるかぐらいかな、あの辺は。ドライブしに行くんだったらもうちょっと後の方がベストシーズンだけど、充分気持ちいいだろうな。
でも、余計なところ走ってる余裕は今回ないんだよね。なにぶん友達の結婚披露パーティなもんで。

ね。おめでとさんです。

ありゃ、話が横道に逸れている。
ま、信州にも車で行くってことで、ここはひとつ。

そんなわけで、運転好き移動好きな私は、長距離走ることも多く、これまでの1日あたり最長不倒記録は、富山→東京→海老名→東京、約700kmぐらい? 時間にして13時間ぐらい(休憩時間込み)だね。

これだけ走ってりゃ、車へのこだわりもあってもよさそうなものだけど、それはほとんどないんだよね。不思議なことに。
それも、車好きじゃなくて運転好きだっていう所以だね。

2005年04月28日

[5周年特別企画 04] バラ

前回、脱線事故のことにふれたけど、文字だけでニュースを読んだので、もうすべての救助作業が終わったものと思い込んでた。それにしても、言葉が足りないね。

さて、4回目のお題は

「バラ」(thanks to blue moonさん)

バラと言われて、真っ先に思い出すエピソードがある。

学生の頃、友達の家に行くと、バラの花束が置いてあった。真っ赤なバラだけの花束。結構大きい。
彼女の誕生日でもクリスマスでもない。その他のイベントごともなかった。その時点で私には、そんなたいそうな花束をもらう理由なんか思いつかないんだけど、何やら落ち込んでいたところに電話がかかってきたのだとか。

「どうしたら元気出る?」
「赤いバラ50本くれたら元気になる」

で、届いたのが、その花束らしい。
それって彼氏だよね、と思ったあなた、違うのですよ。彼氏だったら、私にもまだ理解できる範囲なんだけど、「友達」だそうな。
しかも、その人、スーツ好きな彼女のために、わざわざスーツ着て届けてくれたっていうんだから、当時の私にとっちゃ、カルチャーショックと言ってもいいぐらいな衝撃だったなぁ。
バラって結構高いから、普通に買うと1本500円とかすると思うんだけど、それが50本ってことは・・・とか考えると、なんでもない日にあげるのは考えるでしょ、普通。中には考えないでもいい人もいるだろうけど、私だったら、もう考えまくるよ。たぶん、そんな発想自体浮かばないだろうけど、どんなにがんばってもせいぜい10本ぐらいだろうなぁ。・・・ねぇ。
まぁ広い世の中、元気がないからってバラの花50本ポンと差し出されるような人もたくさんいるのかもしれないけど、私はこれ以外聞いたことないし、自分の周りでこんなことが繰り広げられていようとは、全然考えてなかったからね。おかげで、たぶん本人よりよく覚えてると思うよ。

そんな衝撃的なエピソードとは、ある意味対照的なことも思い出した。

高校の頃、友達と、その子の結婚式にバラの花束をプレゼントする約束したんだった。
バラの花束ほしいなぁ、とかその友達が言ってて、じゃ結婚式にあげるよ、ってなったような気がする。
・・・って、これだけの話。
たわいないというかなんというか、単に日常会話の一部だね。でもまぁ、なんとなくほのぼのした感じがしないでもないか。
彼女はまだ結婚してないから、することになったら、バラの花束送ってみようかな。こんな約束でもちょっとしたネタにはなりそうじゃん。もっとも、私も忘れてたし、向こうもまったく覚えてないだろうけど。

2005年05月17日

[5周年特別企画 05] 恋

4回目と5回目の間がこんなに空いたのは、実は、このお題のせいじゃないのか、と思っていた、そこのあなた、いやいやいや、最初の下書きは一応、29日済ませてあったんだって。
ま、証明の仕様はないけど。

さて、そんなこんなの第5回目のお題は

「恋」(thanks to blue moonさん)

「恋」っすか。

って感じだった。初めてこのお題見たときは。

何書けってのかねぇ。

折しも桜が満開を迎えようとしてた頃(・・・ってそれからどんだけ経ってんだか)。
夕食を食べにいく途中、桜の咲く公園を通った。

そうかぁ、恋って桜だねぇ。

と、花見をする人たちを横目に、ふと思った。
咲き始めたと思ったら、一気に満開。散れば散ったで、それはまた絵になる。

これでいくか。

でも、そんな話延々としたところで、そんなありきたりな一般論、聞きたくもないだろうなぁ。
かといって、私的に恋なんぞ語れるような人生送ってないもんなぁ。

と、あれこれ考えみる。

恋に対する憧れ、みたいなものはたぶんある。
でも、それはちょっときれいに例えてみるなら、「星」みたいなもんだ。晴れてさえいれば毎晩見られるし、きれいだとは思う。でも、実際にはそれは何億光年とかいう、もう訳の分からないぐらい遠くにあるもので、ほしいとかほしくないとか、手に入れようとか、そういう対象にはならない。
要するに、どんなに輝いてきれいでも、それは自分とは無関係のもの。

恋もそんなもんだ。

ずっと、そう思ってた。
人を好きになることはあっても、届くことはない。
それは星に手が届かないのと同じように、私にとっては当たり前のことだ。悲しかったり、切なかったりしても、それはそういうものだから、取り立てて騒ぐほどのことでもない。

そんなことないよ。
やってみなくちゃ分かんないじゃん。

と、言ってくれる人たちもいる。それは、とてもうれしいことだけど、地球はいつか四角くなる、って説得されてるのと、ちょっとだけ似てる。

それは・・・なさそうだなぁ。

だから、恋について何か聞かれれば、恋は別にしたくないし好きな人もいないし興味もない、と答えるのが、いつものことだった。
でも、最近は

したくなくはない。

と答える。
多少年をとって図々しくなってきたのか、可能性そのものは0じゃないぐらいは思うようになってきた、というところか。
そもそも手の届かない「星」が、何かの拍子で大金が転がり込んだら手にはいるかもしれない「高級品」ぐらいにはなったのかもしれない。

それでも、そんな高級品、やっぱり必需品ではない。

別に恋がなくても生きていける。というより、むしろそれが当たり前の状況。
だから、さびしさとか、そういうことと恋とは直接結びつかない。もちろんさびしいときはあるし、それがないふりもしないけど、さびしいといえば、小さい頃からずっとそうだったし、それが恋というもので埋まるものかどうかは、私には分からない。
そうなると、どうなるかというと、さびしいから恋がしたいとか、恋人がいないからさびしいとか、そういう発想自体がない、ということになる。

そもそも、これだけ一人でいると、それはそれでバランスがとれるものだ。
まぁ、そんなバランス、崩れたところでどうってこともないんだろうけど、それでもとれてるものはとれてるわけで、わざわざ崩したくもない。
だから、

したくなくはない。

そうなる。
せめて、ほしいけど今お金ないから買えないなぁっていう「パソコン」ぐらいになるといいのか。でも、現状は、「星」に戻らないようになんとか気をつけてるってとこかな。

先は長いなぁ・・・。

あぁ、手っ取り早く、花咲じいさんに灰でもまいてもらうかぁ。
枯れ木に花を咲かせましょう、って。

・・・って、あたしゃ枯れ木か?

2005年05月22日

[5周年特別企画 06] 適齢期っていつ?

実家のリフォームが完成したから見に来い、とのことで実家に来てる。
でもって、餃子を焼けだの、なんだのと使われてるらしい。

さて、本日のお題は

「適齢期っていつ?」(thanks to sallyさん)

適齢期ってなんの?

とか聞いたら怒られるか。
じゃあ、

知らない。
以上。

・・・ウソです。

えっと、一般的に言うと、どんぐらいかな。今だと、20代後半ぐらい? 確か、何年か前に、女性の初婚年齢が平均26とか27とか言ってたような気がするけど。
去年の流行語に従えば、30過ぎて、未婚、子なしは「負け犬」らしいから、その前が適齢期なんだろうね。

私の意見は、「いいじゃん、いつでも」。
したいときにすればいい。まぁ、したいからと言って、いつでもできるもんでもないけど、それも縁ってやつだ。焦っても仕方ない。できるときはできるし、できないときはできない。
そんなもんじゃないの。と思ってる。

まぁ、うちの母親に言わせると、

あんたねぇ、結婚はしようと思わないとできないのよ。しようと思ってもできないなら仕方ないけど、しなくてもいいって思ってるんだったら、しようと思わなきゃダメ。

だそうだけどね。そう言った後に、

私たちはどうでもいいけど、一人だと老後がさびいしいわよ。

なんて言われると、さすがになんだか申し訳ない気にはなる。だからといって、そんなこと言われて、はい、そうですかと結婚する気になるわけでもなく、今の私には、まだまだ「考えられないこと」なんだよね。
でも、別に「しなくてもいい」って思ってるわけじゃなくて、「しない気がする」と思ってるだけなんだけど、まぁ表面的には同じようなもんか。

ほんとに今は、結婚してる自分の図みたいなものが、なんも思い浮かばないからね。
まだ独り身の友達の中には、結婚したくて仕方ないねえさんたちもいるけど、できないならできないで、まぁ一人でいるのも楽しいし、というねえさんたちのが多いから、しばらくは遊んでもらえなくなることもなさそうだし。

ただね、ものすごく漠然とした予想(計画じゃなくて、予想)の中では、たぶん40ぐらいになったら、結婚についても考えられるようになるんじゃないかと思ってるのね。なにせ、今は前回のお題で書いたみたいな状況だから、それをまず意識を変えてって、で、それがなじんできて、っていうのが、それぐらいかなぁと。
そうじゃないと、結婚というか、誰かと一生生きていこう、という大それた決心ができると思えないもんね。

だからまぁ、そういう意味では、私の適齢期は、40代だね。

・・・遅っ。

2005年05月25日

[5周年特別企画 07] 人との距離のとり方

今日は300円のラーメンと160円の餃子を食べたあと、その近所にあるミスドで、ドーナツ1個とコーヒーを飲みながら、今日のお題の下書きをしてきました。このまま行くと、この企画が終わる頃には、横に成長してそうです。

そんな、今日のお題は

「人との距離のとり方」(thanks to hiroさん)

人との距離を多めにとりすぎる傾向があると思う、私の場合。
だから、「距離を保つ」という意味での「距離のとり方」なら、なんも問題ないんだけどね、逆に「近づかない」ということが、たぶん問題。
近づくのも、近づかれるのも苦手。そういうことを意識しないで、なんとなく関係ができあがるときはいいけど、どんな相手でも勢いよく近づいてこられると、そのままそーっと後ずさりするし、自分からは基本的に近寄らないし。・・・って、威張ってる場合じゃない。
結局、ある程度距離を保ってる方が落ち着くし、楽なんだよね。でも、この距離感と感情のバランスがとれなくなると、えらいことになるのよ。これが。

なもんで、ここ何年来、考えてるのが、

いかにして人との距離を縮めるか。

ってこと。

で、考えた結果、できあがった作戦がこんなの。

その1 自分の気持ちをちゃんと言葉にして把握する
その2 その気持ちを人に伝えられるようにする
その3 相手との距離を確認する
その4 その距離に合わせて、自分から働きかけてみる
その5 相手が応えてくれたら、もう少し進んでみる

その1、その2は、準備運動というかリハビリというか、そんな感じだね。
で、どうしたいの、って自問自答したときに答えられないと、どうしようもないんだよね。どこに行きたいか分からないと、どこにも行けない。というか、どこかに行きたいかどうかも分からないと、立ち尽くすしかないでしょ、という話。
だから、まず現状確認。自分がどう思っていてどうしたいのか、これをマイナスな部分もひっくるめて言葉にする。
そして、伝えるところは伝えること。
伝えないことは相手にとってはないのと同じこと。何でもかんでも伝えりゃいいってもんじゃないけど、あんまりなんにも伝えないと、自分の存在自体薄くなってくもんね。

ってとこから、まず始めたんだけど、それが今こうして、独りごとみたいなことになってるわけですよ。
これで、だいぶ、もの言うようになったよ。比較の問題だけど、いろんなこととりあえず口にしてみるようになったと思う。それがいいかどうか、微妙なときもあるけどね。

そして、その3~5で、具体的に距離を縮めてこう、と。
単純に、相手に心を開いてほしいなら、まず自分から、という、とても当たり前なことを言ってるだけだったりする。しかも、これは案外昔から気をつけてたことではあるのね。ただ、ここから導き出される結論が「だから自分の心を開きましょう」じゃなくて、「だから相手が心を開いてくれなくても仕方ない」ってなるときがあるから、気をつけておかないといけないんだけど。
だって、それだと、距離縮まらないじゃんねぇ。

あとは、相手が自分との距離をどう考えてるかさえ見誤らずに、3~5を繰り返していけばいい関係を保ったまま、それなりのところまでは近づけるだろう、と。

こんな作戦なんだけどね。
別に間違っちゃいないと思うし、悪くない。

だけど、人との距離感とか付き合い方とか、結構悩んでいろいろ考えてきたのにさぁ、それが、なんとなく光が見えてきたと思ったら、そのスタンスっていうのかな、昔と変わってないんだよ、あんまり。

ただ、内容は変わってる。
今思うと、前は、そういうものを「自分」を抜きにして考えようとしてたとこがあったのね。つまり、自分が理想とする距離感があって、それを成立させるためにどうすればいいかってことを、自分の感情を外に置いて考えてたような気がする。でも、今はまず「自分」ってとこから始めないといけないな、って思ってる。そうしないと、成り立たないから。

自分の気持ちと相手の気持ちと両方分かってはじめて、折り合いがつけられる。自分はこう思ってるけど、相手はこう思ってる。じゃ、こうしよう。ていうのが、折り合いなんであって、自分がなくて相手はこう思ってるからこうしよう、というのは意図はどうあれ、ただ折れてるだけ。そういう関係は長続きしそうには思えないもんね。

付かず離れず、ちょっとずつ近く、折り合いをつけながら、それぞれの距離を楽しめると、それが理想かな。

2005年05月30日

[5周年特別企画 08] 苦手(キライ)な人

iPod miniがあたるというので、ウーロン茶をせっせと飲んでる今日この頃。
でも、電車の中で見かけた、ソニーのが思いの外かっこよく光っていて、それもちゃんとチェックしてみようと考え中。

そんな感じの今日のお題は

「苦手(キライ)な人」(thanks to hiroさん)

誰しもあまり人に触れられたくない場所っていうのがあると思う。私にもあって、というか、かなりの隠したがりな気がするけど、そこに触れられるのが、非常に苦手。でもって、どんな形にせよ、常にそういう部分を意識させられるような人も、やっぱり苦手。
たいして親しくもないのにやたらと人の内面を知りたがる人とか、自分の内面と引き換えに人の心の中をのぞきたがる人とか。

私が、ひとりでドライブ行ったりする、と言うと、さびしくない? と聞く人がいる。これ自体は特にさびしくもないので、別に、と答える。でも、もし、さびしい、と答えたら、その人どうにかしてくれるんだろうか。どうにかしてくれる気もないのに、さびしいという本音だけ認めさせられて、だよねぇ、とか言われて、笑ってみせたりしなくちゃいけないのは(別にそんな対応しなくてもいいんだけど)、なんだか理不尽な気がしてしまう。特に、自分がまいってるときはかわすのも一苦労で、余計にそう思う。そんな質問を一回されたぐらいで、その人がどうこうということもないけど、その手の質問ばっかりする人は、ダメだね。

たとえば、そんな感じかな。

あとは、内面には立ち入らないけど、なんだか隙のない人も苦手かも。自分の至らなさが際だってくるから、萎縮してしまう気がする。それも、ある意味で、自分の隠したい部分を意識させられるってことだから。

しかし、誰かのことが苦手とかキライとかって、結局のとこ、自分の弱みでしかない気がする。自分というものをありのまま受け入れられてれば、そういう人ってだいぶ減るんじゃないかなぁ。それをごまかしたり、隠したり、嘘ついたりするから、そこを突かれるとイヤだって思ってしまう。
だから、その苦手を人に言うっていうのは、自分の弱点をさらしてるのとたいして変わらないよね。

できるなら、そんな人いない、って言いたい。

でも、思うんだけど、どうがんばったって弱いもんは弱いんだし、隠したところで隠しきれるもんでもないし、そもそも人間できてるわけでもないんだから、苦手な人の1人や2人や3人や4人・・・いても当たり前のこと。
それを自分の中で認めないで、苦手とかキライとかないことにしてみても、なくならないどころか消化できなくなるだけ。だったら、それを認めちゃった方がよっぽど潔いし、楽ってもんだ。私の好き嫌いごときで、誰かの優劣や価値が変わってくるもんでもない。

だからって、触れて回ることでもないけど、うっかり口にしてしまったとしても、全速力で逃げればいいことだ。

余裕で追いつかれそうだけど・・・。

2005年06月14日

[5周年特別企画 09] 本音と建前

梅雨入りした途端、中休みらしい。

ところで、すっかり遅くなってしまった・・・。
さっそく、今日のお題・・・の前に、まんじゅうは忘れてください。

ってことで、あらためて今日のお題は

「本音と建前」(thanks to hiroさん)

いやね、何度か書いたのよ。で、これで行こうかなぁとか思って、キーボード叩いてるうちに、なんか違うなぁって思って。
何が違うかっていうと、建前の扱いなんだよね、たぶん。建前と本音の関係ってどんなかと考えてたんだけどね、これが単純に対立関係じゃないんじゃないかって気がするものの、うまいとこに落ち着かない。これか、って思ったりするものもあったんだけど、時間が経つとなんか違う。
だから、そっち方向から攻めるのやめにした。結構長いこと考えてたんだけどねぇ・・・ま、そんなこともあるわな。

で、今回は「本音バージョン」で「本音と建前」について書くことにする。今回が本音バージョンだからって、今まで別に思ってもないことを書いてたわけじゃないからね。そうじゃなくて、なんか、あんまり成形しないでそのまんま行こうかなと。要はいつもの独りごとってなだけだけど。ってことで、文体も久々にこんな感じで行きます。

って、長居前置きはいつものことだと大目に見てもらって、本題。

なんか、本音とか建前とかどっちにしてもめんどうだと思うのよ。

そりゃ、できれば本音で生きられればいいなぁって思う。でも、これがなかなか厄介なんだよね。ひとつには自分自身の問題。本音を表に出す、ということには、エネルギーがいる。
たとえば、これを言ったら嫌われるかなとか、なんか揉めるかなとか、そう思っただけで不安だし、いろいろ考えてるうちに、めんどくさくなって、たいした本音でもないから言うのやめとこうか、ってなる。それでも言っとこうと思ったら、まず、そのめんどくささと戦わなくちゃならない。これはまためんどうなのなんのって。その勝負に勝って、なんとか言ったら言ったで、言ったあとがまた大変。いいとも悪いとも思ったような反応もなく、流された日にゃ、言わなきゃよかったかなぁとそりゃもう大反省大会。
それもこれも自信のなさと覚悟のなさが原因なんだろう、と分かっちゃいるけど、めんどうだねぇ。ほんとめんどうだ。

かといって、建前もこれめんどうなんだよね。
だって、まずはじめに、どんな建前使っていくか考えなくちゃいけないじゃん。で、それを一旦使い始めると、なかなかそれ簡単には変えられないっしょ。そもそも建前って、ある種嘘みたいなもんだし、嘘つくのって、それだけでめんどうじゃん。
それに、建前で行っちゃうときって、だいたい何かを守ってるときような気がするから、自分の小ささに、ほんとイヤになってくる。何そこでカッコつけてんの、ってなもんでね。ほんとむかつく。そうなると、また自分の扱いがめんどうなのよ。

めんどくさいって言えば、本音と建前の区別もめんどくさいよね。いやね、そもそもその区別が明確に付いてない自分が一番めんどくさいんだけど、本音はこれです、みたいな、そんなすっきりと話せるものばっかりじゃないじゃん。
他の人がどういうふうに、自分の中で考え事をしているのか、分からないんだけど、私はなんかいつも、いろんな自分が何人かいるようなイメージなんだよね。カツオの天使と悪魔じゃないけど。
たとえば、ものすごくちょっとしたことで傷ついた顔して落ち込んでたりすると、その落ち込んでる自分がいて、それをなだめる自分がいて、あきれて突き放す自分がいて、なぜ自分はそんなことで落ち込んでるのかと冷静に考える自分がいる、という感じ。
この自分たちは、結構考えてることがバラバラなもんで、どれを本音として話したらいいのか分かんないし、だったら、今のこの状況をすべて伝えればいいのかって言うと、それもなんか違うだろうと思うんだよね。

だって、

今、ちょっと傷ついて落ち込んでるんだけど、それは誰が悪いわけでもなくて、自分が勝手に傷ついていて、自分のある部分はまたかと思ってあきれてるし、その一方で、この傷ついてる状況があんまりよろしくないので、一生懸命自分に大丈夫だと言い聞かせて、なだめてるところです。同時に、なんでこんなことで傷つくのか考え中です。

ってこれ、本音っていうか、実況中継みたいなもんじゃん。

確かにね、傷ついた顔してるのは見せたくないから、じゃ、それは見せないようにしよう、と思う。それはたぶん建前なんだろうけど、じゃ、その代わりに、ほんとこんなことで傷ついてみせててバカみたい、と怒ってたって、これは本音って言っていい気がする。あるいは、いつも同じようなことで落ちるんだろうと嘆いてみせるのも、これも本音。
ただ、そういうときだって、言いながら、こういうこと言ってんのは慰めてほしいからだよね、って思ってたりする。
だから、本音なんかなにか分かんないもんね。

違うなぁ。違うね。
分かんないんじゃないんだよね。
私が口にするのは、いつも純度100%の本音じゃないんだよね。どこかしらに、建前が混じってるんだ。それは本音と違うことを言うというのじゃなくて、ただある部分の本音を隠すという意味での建前。
思ってもないことはなるべく言わないようにしてるけど(それでも言ってるけど)、思ってることのすべてを口にしたことは、たぶんない。すべてに近いとこまではいくけど、すべてじゃない。
上に書いた例で言えば、自分が今これを言うのは慰めてほしいからのような気がする、とは言わないし、相手が慰めたり励ましたりしてくれることで、自分がどんどん苦い気持ちになっていっても、それは言わない。
そうしてくれる相手の気持ちはうれしいし、自分の本音を優先してその気持ちを傷つけてしまうのはイヤだから。けど、それは決して相手のためじゃなくて、言うことで、相手に引かれることが怖いだけだ。
たぶん、自分が思ってることのすべてを実況中継したら、人付き合いなんかできない。と思ってる。

とか言いながらも、かなりいろいろ言うようにはなってきてるよ。っていうかなろうと思ってるし。
もともと、上にも書いたけど、建前言うのもめんどくさいからさぁ、本音も言いたくないときは、なんも言わないんだよね。だから、行くとこ行くと、相当無口だよ。
でも、それじゃいけないなぁと思って、なるべくいろんなことを言うようにしようと思うんだけど、これがまためんどくさい。明文化されてない気持ちを明文化ししなきゃいけないわけで、これがほんとにエネルギーがいるんだよね。
その上、伝えることにエネルギーのいること。

ってことで、頭の話に戻る。で、エンドレス。・・・じゃなくて。

つうか、本音と建前、ってお題なのに、本音の話がほとんどじゃないかっていう話。
いや、建前はね、別にあっていいじゃん、って思ってる。というより、必要だよね。ただし、建前を言うときは、それが建前だって、自分でキッチリ把握してるなら。それと、本音を言わなくちゃ言えないときに本音を言えるなら。っていう条件があるけど。

ってことで、長々と、ダラダラと、書き続けちゃったけど、ここまで読んでくれて感謝です。
謝々。

それにしても、「めんどくさい」連発しすぎ・・・・・。

2005年07月03日

[5周年特別企画 10] ライブへの意気込み

7月になってもうた。まだ3分の1しか終わってないって、どういうことよ。

一昨日、テレビのチャンネルを変えたら、摩季さんが出てた。そういや、出るとか言ってたような。
しかし、テレビに出てる摩季さんを観るたびに思うんだけど、向いてないねぇ・・・。

全然ライブの方がいいっすよ

と、文字を大きくして言ってみる。
なので、大黒摩季の歌とか嫌いでない方は、一度足を運んでみてくださいな。

ってことで、今日のお題は

「ライブへの意気込み」(thanks to sallyさん)

別に私がライブやるわけじゃなくて(・・・当たり前だがね)、もちろん、摩季さんのツアーね(ツアーの詳細はオフィシャルファンクラブ エムドライブのサイトでどうぞ。席を選ばなければ、だいたい、まだチケットあると思われます)。

懸案だったチケットは、とりあえず入手したよ。やっぱり2階席だったけど。

そんなことで、意気込み。・・・意気込みねぇ。なんだろ。

いや、なんせ、ライブに行くときはいつも、遠足に行く小学生のようなもので、何も考えてない。摩季さんに任せときゃ大丈夫だろう、ぐらいなもので。

はじめてライブ行ったときはえらい緊張感があったもんだけど、さすがにその種の緊張感はだんだん減ってくるもんだしね。あと、数年前ぐらいだと、今日の声の調子はどうだろうとか、別な意味で緊張感があったりもしたけど、それも前回のツアーぐらいからは、そのあたりも大丈夫だろうと思うし。
ま、テンションは上がるけどね。たぶん普段はないテンションだもんなぁ。

摩季さんに限らずだけど、ライブっていうのは、ステージの上にいる人たちが作り出す流れに身を任せるのが、一番なんじゃないかと思う。で、その流れとか雰囲気とかが好きであれば、また行く。そういうもんだろうし、だから、摩季さんのライブに行くんだし。

要するに、意気込みといえば、楽しむぞ、ってことかなぁ・・・だねぇ。

他にあるかなぁ。
みんな、何を思ってライブに行くんだろう。そんな意気込みとかしっかり持ってるもんなのかなぁ。
私の場合、むしろライブの前にはなるべく何も考えないようにしてるって言った方が、正確かもしれない。

うーん・・・こんなもんかなぁ。
意気込みって聞かれると、そんなあらためてことばにするほどのことは、なんもないかも。
とにかく、ただ、楽しみだし、楽しみたいし、楽しませてくれるだろうと思ってるし、っていうだけだねぇ。

あんまりしまんないけど、そんなことで。

あ、そうだ。
バックステージご招待ってのに、応募しようと思ってたんだった。

・・・ミーハーだなぁ。

2005年08月18日

[5周年特別企画 11] 最近のお笑い

えらい、すみません。

もういきなり謝っちゃうぐらい、ご無沙汰してしまいました。
お題行きます。

というわけで、今日のお題は、

「最近のお笑い」(thanks to sallyさん)

いやね、好きなのよ、お笑い。ライブ行ったり、DVD見たり、そこまでじゃないんだけどね。テレビでやってると、ついつい、見てしまうぐらいには。

だけど、お笑いについて、きちんと文章が書けるほど、詳しくもないから、ちょっと思いついたことを、つれづれに書いてみることにする。

だいぶ落ち着いてきた感もある、ここのところのお笑いブーム。
ネタ系(ようするに、ネタを見せてくれる、というぐらいの意味だけど)の番組が好きな私としては、歓迎すべきものなんだけど、目につくものみんな見てると、見たことのあるネタばっかりになってくるのが難点だね。

あと、一般手金にブームの後、テレビで見かける人たちって、ネタやんなくなっちゃうじゃん。それがつまらない。で、何やるかっていうと、番組の司会だったりするわけ。
友達と前に少し話したことがあるんだけど、司会ができないと芸人さんがテレビの世界で生き残ってくのは、厳しいのかもしれない。たとえば、前回のボキャ天あたりのブームの人たちで見てみると、爆笑問題だったり、ネプチューンだったり、くりぃむしちゅー(当時は海砂利水魚だったのにねぇ)だったり。
今だって、長井秀和さんとか青木さやかさんあたりは、すでにネタやってるの見かけないもんね。

青木さやかさんといえば、最近のお笑いの人の中では、この人が一番好きだったりするんだよね。何が好きかっていうと、実はあの声かもしれないけど、なんていうか、あれこれブチ切れてても、どことなく「負け犬の遠吠え」(某流行語的意味合いじゃなくて)ちっくな感じがするところかな。
でも、この人はネタやるってより、もっとテレビ的な人だと思う。本人がどう思ってるかは知らないけど。

いや、ネタ好きとか言ってなかったっけか。

えっと、ネタで言うとねぇ、ドランクドラゴンの塚地さんとか、あと次長課長の河本さん(たとえば、水木しげる漫画に出てくる一般人のモノマネとか)かなぁ。あと、タイムマシーン3号の関さんの動き(ロボット力士みたいな動き)とか。
そうそう、友近さんの中森明菜さんのモノマネは絶品だね。そっくり。この前本人と2人でしゃべってたけど、笑けた。
あとは、リズム系っていうか、リズムに乗ってネタやる人たちも結構いいね。大爆笑するようなおもしろさじゃないけど、楽しく見られるね。あるある探検隊のレギュラーとか、武勇伝のオリエンタルラジオとか、イシバシハザマとか。

他にも、今思い出さないのがいろいろあると思うし、特にこれっていうものも、そんなになくて、なんかお笑いのあの雰囲気が好きだったりする。

そうだ。この前、友達が、南海キャンディーズのしずちゃんが最近好きなんだよねぇ、って言ってたので、

「あんなぁ、やまちゃん、ブサイクやんかぁ」

って、マネしてみたら案外好評だったわ。で、持ちネタにしてみようかと、1人で再現してみようとしたところ、ちっとも再現できないでやんの。だから、振らないでね。

最後に「ヒロシ風」に締めてみようと思う。
(・・・なんで?)

では。
(なんで?)


   CONです。
   友達の結婚パーティに黒いパンツスーツを着ていったら、
   「ホストみたい」
   と喜ばれたとです。

   CONです。
   ある友達の初恋の相手はCONちゃんだったと
   聞かされました。
   女の子です。

   CONです。
   CONです。
   CONです・・・

(だから、なんで?)

2005年08月29日

[5周年特別企画 12] 困難

お盆前後のこの時季が、ある意味で一番夏らしい気がする。
でも、すでに、どことなく秋の気配も感じたりする。

・・・のんびりしてるうちに、夏も終わっちゃうってことね。

ってことで、急いでお題行きますか。
今日のお題は、

「困難」(thanks to のっちさん)

どーんなにこんなんで くじけそーでもー

「困難」という言葉でついつい思い浮かんでしまう、「愛は勝つ」(KAN)。
年がばれる。

・・・本題行きます。

一番最初に「困難」と聞いて思い浮かんだことが、実は「生きること」だったりするので、その辺のことを書いてこうと思う。

生きること。
生活のためにお金を稼ぐとか、そういう比喩でもなく、「自分らしく」とかそういう形容詞が( )付で足されてるわけでもない。ただ、生きる、ということ。
それがすごく難しいことだと感じてたとこがあった。

たとえば、朝目が覚めたふとんの中で、何の前触れもなく「この先絶対生きていけない」という絶望感に襲われたりとか、あるいは、夜1人でぼけっとしてると、ふと「もう、いいかな」と思ったり(どのあたりが「もう」なのか、そう思ってた瞬間でさえ、分からなかった)。

まぁ、私の場合、具体的には死にたくなるようなことも、死ななきゃならないようなことも、何もないし、その前に死にたいわけじゃない。ただ、生きてくことがものすごく難しく思えることがあるというだけだ。

一般的に困難に直面したとき、取りうる選択肢は3つ。乗り越えるか、その前で立ち止まるか、逃げ出すか。
そりゃまぁ、できることなら乗り越えたいけど、条件反射で逃げ出しそうだし、それを避けようとしたら向かってく勇気もなくて、思わず立ち止まってしまったりとか、そんなこともあるよねぇ。私の場合、たぶんだいたい立ち止まってる気がする。困難はいつまで経っても去りません。

それじゃ、「困難」=「生きること」だった場合、どうなるか。
まぁ、そう簡単に逃げ出したり、立ち止まったりするわけにはいかない。生きることから逃げる。生きることの前で立ち止まる。それはつまり、生きないことだから。
でも、考えてみると、乗り越えることは考えてみたら、案外簡単かもしれない。だって、生きてりゃいいんだから。
それ以上にできなきゃいけないことなんかない。ダメ人間だろうが、弱かろうが、バカだろうが、それは何の関係もない。生きることが困難なら、困難を乗り越えるっていうことは、つまり生き続けること。
ってことは、1日の終わりに、自分を誉めていいわけだ。

生きることってこんなに大変なのに、今日一日生きた自分ってばエライ。

そうすると、誕生日なんか大変よ。

また、1年も生きちゃった。自分スゴイ。
で、なに、もう30年以上も生きてるの? めちゃくちゃスゴくない?

もう、誉めまくり。
でも、人には自慢できないね。周り中スゴイ人だらけだもんなぁ。

つうか、バカ? って思ったっしょ。
いいんだって、バカで。生きるか死ぬかの瀬戸際で、手段なんか選んでられるかっての。

まぁ、大げさだけど、生きてる以上生きてかなきゃならないと思うわけよ。少なくとも、生きてくことが難しいような気がするってことぐらいで、死ぬわけにゃいかない。

そもそも、戦争もない豊かな国で育って、大病とか貧困とか飢餓とか紛争とか、そういう文字通り、生きてくことが大変な状況も知らないし、親に捨てられたとか、友達がいないとか、誰かに裏切られたとか、理不尽な目に遭わされたとか、そういう心の傷があるわけでもない。そういう中で、生きていけないような気がするっていう、理由も意味も分からない。

ということは、だ。つまり、この生きていけないような気がするってのは、そこに何かしらはっきり「困難」と呼べるものがあるわけじゃなくて、そこに何かがあるような気がするってだけで、本当にあるかどうかも分かってないってことか。

・・・脳内困難?

あながち否定もできないねぇ・・・。
確かに昔からそんな習性がなきにしもあらず。実際に注射してるときより、注射を待ってるときの方が怖かったりとかしたもんなぁ。

なんか、その習性を直す方が困難な気がしてきた。

・・・歌うか。

しんじることさ かならず さいごに あいはかつー(KAN「愛は勝つ」)

2005年10月30日

[5周年特別企画 13] 呪文

えー、まぁ、そういうことで・・・・ってどういうことだ・・・ってことで、とっとと行きます。

今日のお題は

「呪文」(thanks to のっちさん)

呪文かぁ。ちょっとワクワクする響きだよね。やっぱり魔法使いとか連想するからかなぁ。
魔法使いものって、わりに好きだったと思うんだけど、魔法使いになりたいと思った記憶はないんだよね。それよりは、ドラえもんの道具がほしかったりとか、怪盗ルパンの子分になりたかったりとかしたなぁ。
なんでだろ。
もしかして、魔法使いものって、みんな女の子向けだったからかな。サリーちゃんにしてもアッコちゃんにしても、そういや、クリーミーマミとかってのもあったっけ? あの辺はみんな女の子が、大人になったりとか、きれいになったりとかそんな内容だったような感じがするもんね。あぁ、だからだな。
別に早く大きくなりたいとか、お姫様になりたいとか、そういう願望はなかったもんな。昔から。

なんだか、魔法使い談義になってる気が・・・。

えっと、呪文ね。
まず、魔法使いが思い浮かんじゃったわけなんだけど、呪文っていうのは、何かしらに変身できたり、何かが何かに変わったりとか、どっかに飛んでいったりとか、「唱えることで何かにある効果をもたらす言葉」かなぁ。

魔法使いじゃない私にとっては、そんな便利な言葉なかなかないけど、口ぐせはある意味、”呪文”だと言えると思う。
ちょっと前に「口ぐせを変えると人生が変わる」みたいな題の本があった気がするけど、そんなふうに口ぐせで気持ちが変わっていくことは確かにある。
なんか、口ぐせって、意識的にしろ、無意識にしろ、何かしらの意味があると思うんだよね。その言葉を口にすることによって、何かしらの精神的な作用がある。落ち着くとか、気分が切り替わるとか、気分が高まるとか。
その、作用そのものが呪文的な働きだと思う。よく言われる、言霊なんだろうね。

たとえば、なんか疲れたりしてもうダメかなぁというときに、「まだまだ大丈夫」って言ってみると、まぁ、ほんとにダメなときはやっぱりダメなんだけど、多少余力のあるときは、もうちょっとがんばれたりする。

そういう作用。
これはプラスの作用だけじゃなくて、マイナスの作用もあって、ダメだ、ダメだって言ってるとほんとにダメになる。

呪文と口ぐせは似ている。

てことで、自分自身のことに入っていこうと思うんだけど、長いっすか。
でも、まだ長いの。

自分の口ぐせは、意識的に口ぐせにしてるんでない限り、なかなか気づかない。でも、まぁ、こんなとこかなぁというのが、この2つ。

めんどくさい。
しょうがない。

・・・なんですか、このしょーもない言葉たちは。
さて、こんなものに、何らかの精神的作用が隠れているものか。ただ単に怠惰な性格が表れてるだけなんじゃないのか。多分そうな気がするけど、まぁ一応考えてみることにする。

まず、「めんどくさい」。
これは何かやらなきゃいけないことがあると、まず反射的に口をつく言葉。だって、めんどくさがりなんだもん。いや、そんなとこで開き直られても困るけど。
とは言っても、昔はあんまり口にしなかったのよ。なんか、めんどくさがるってあまり良くないイメージがあるじゃん。だから、思ってても思ってないことにしてたんだろうね。けっして、めんどくさがりじゃなかったわけじゃないので、そこには多少の無理はあるわけよ。
それをあるときから、やめようと思ってね。そのいきさつは、いろいろと独りごとでも書いてると思うので、ここでは割愛するけど、その中で、まずめんどくさいものはめんどくさいって言ってしまえ、っていう。だって、隠しておくのもめんどくさいもの。
まぁ、そんなわけで、この「めんどくさい」はまず「自分の本心をまず素直に認める」という作用があるわけだ。

でもって、「しょうがない」。
これは、結構「めんどくさい」とセットで使うことも多い。たとえば、やらなきゃならないことがあって、それは「めんどくさい」けど、「しょうがない」からやるか。という感じで。
逆もあって、「めんどくさい」から、「しょうがない」やめるか。という。
最初の場合は、分かりやすいと思うけど、めんどくささを超える理由を受け入れるための言葉。めんどくさいからやらないというのは、それでいいと納得できていれば問題はないんだけど、めんどくさいからやらないというのは、いかにも怠惰な人間っぽいので、それを自分で許せないと、精神衛生上あんまりよろしくない。だから、自分が怠惰であるという事柄もひっくるめて、受け入れるための言葉。
要は、なんにしろ、「現状を受け入れる」あるいは「納得させる」という効果があるのかなと。

いささか胡散臭い解釈ではあるけど、そんなふうに言ってもそれほど間違いじゃないと思う。
まぁ、このおかげで、それなりに精神のバランスを保てている面もなきにしもあらず、のような気もするけど、活力が感じられない口ぐせだな。
もうちょっとバイタリティーのある呪文を見つけ出して、口ぐせを置き換えようかなぁ。

[5周年特別企画 14] 人生(私の生き方)

では、本日第2弾。

お題は、

「人生(私の生き方)」(thanks to 治空さん)

人生(私の生き方)

人生とか、生き方とかを語るほど、人生悟っちゃいないなぁ。
特に、”私の”なんて言われると、ちょっとおこがましい感じがする。

今現在の生き方なんか語れるほどのものでもないし、ここはひとつ理想的なものぐらいでお茶を濁してみようか。

”生き方”っていうと、どう生きるかってことだろうと思うんだけど、どう生きるかっていう問いも結構漠然としてるよね。
その中で、どんな人になりたいかということも、これまで生きてきた結果が、人の中に表れて人を形成していくなら、やっぱりそれも生き方のひとつだと思うので、その辺を今回はちょっと書いてみる。

まず、どんな人になりたいかというと、富士山みたいな人。
って、なんだか子供が、大きくなったらウルトラマンになりたい、って言ってるみたいだ・・・。
まぁ、似たようなものかもしれないね(否定しろよ)。

もちろん、富士山そのものになりたいわけじゃなくて(当たり前だ)、その佇まいというか、日本人の中にあるだろう、というか、私の中にある富士山を擬人化したイメージを持った人になれたらいいなぁと。

私はなんとなく富士山に人間っぽいイメージを抱いてるんだけど、これってたぶん私だけじゃないと思うんだけど、どうなんだろう。もともと富士山は信仰の対象だし、そこには当然神のイメージもあるだろうし、神というのは、どことなく人に近いものだと思うからね。

そんなことはともかく、具体的に富士山っぽいというのは、どんなことかってことよね。

まず、富士山って、どっしり構えてるっしょ。
あの、何事にも動じない感が非常にいいんだよね。なにぶん自分が、なんにでもすぐ動じるもんで、動じないものには憧れるという・・・まぁ、ないものねだりってわけだね。

なんか、こんなこと、富士山見るたびに書いてる気が・・・。

でも、次はこないだ松本から帰ってくるときに、富士山見ながら、気づいたことだから初めて書くよ。・・・前に同じこと思いついてなければね。

富士山が孤独か孤独でないかっていうと、多分孤独だと思うわけですよ。だって、山脈の中のひとつの山でもないし、他の山と比べてみても一見して富士山だって分かるということはそれだけ他とは違うってことで、人間で言えば、”浮いてる”と言っていい状態だもの。
でも、揺るがないでしょ。
多分、内側では、いろいろとあると思うんだよね。ゴミ問題とか。そういうあれこれを決して表に出さず、悠然と構えてる。

いつでも変わらずにそこにあり続ける、ということがなんかこう周りに、ある種の安心感を与えられることってあるじゃん。私にとっては、富士山っていうのは、そういうところもあるんだよね。

しかし、そういう雄大な人になれると、そりゃもう・・・孤独だろうな。やっぱり。
でも、それをがっしり受け止められる大きさも憧れたりとか、するんだけどね。

私のイメージでは、美空ひばりさんが、孤独であることを引き受けて、表に対しては最後までスターであり続けたのは、富士山的だと思う。
それを思うと、やっぱり無理だなぁ。あんな覚悟はどこにもないもん。

それに、そんなものを目指してると、いわゆる幸せには縁遠そうだなぁ。ま、なれなさそうなので、よしとするか。

ただ、そこにいることで、誰かに緊張感を強いるんでなくて、何かしら肩の力を抜けるようなそういう、ほっとできる、そういう空気感のある人になれたらいいなぁとは思う。

2005年11月06日

[5周年特別企画 15] 人を好きになった瞬間

ようやく折り返し。

今日のお題は

「人を好きになった瞬間」(thanks to 治空さん)

一応、お題の趣旨としては、やっぱり恋愛感情としての「好き」ってことだよねぇ。しかも過去形ってことは、今まであったことを語れって話だわね。
ってことは、このお題を語るのに、私ほどふさわしくない人間もいないんじゃないかと思う。
だって、分かんないんだもん。
「分かんないんだもん」とか言ってる場合じゃないような気もしないではないけどさ、分かんないものは分からないんだから、仕方ないじゃん。
って、開き直ってる場合でもあるまい。

まぁ、話を進めよう。

人を好きになる過程っていうのは、大まかに言って3つぐらいあるような気がする。
まず、一目惚れとか運命の出会いとかそんなふうに呼ばれるような、出会った瞬間、この人だと思うようなパターン。
それから、知り合ってから時間は経ってるものの、恋愛対象としてはまったく見てなかったのに、何かしらのきっかけで急に感情が変化するもの。
最後に、いろいろな積み重ねで少しずつ気になったりしながら、好きになっていくみたいなパターン。

好きになった瞬間が分かるのは、上の2つかなぁと思う。
でもって、私が多いのは、主に最後のやつ。
白と黒のグラデーションで白と黒の境界を見極められないのと同じように、どこで好きになったかなんて分からない。

しかも、たぶん自分の感情に非常に鈍感なんだと思う。痛みに強いと、病気になっても耐えられたりして病気と気づかないみたいに、たぶん気づいてない。後から考えれば、ずっと好きだったんだろうなぁとは思うけど、その最中には分からない。まぁ、鈍感にしてた部分は否定できないけど、それはまた別の話ということで。

とは言っても、明らかに黒だろうとか白だろうとかいうぐらいまで、色がはっきりしてくれば、さすがに知らないことにするわけにもいかず、好きなんだなぁということになるわけだけど、その瞬間がすでに末期症状ということが多くて、身動きする気にもならない。たとえば、その人が自分の好きな人の話をしてるとか、誰かからその人の結婚話を聞くとか、そんなときばっかり。

そうなったら、もうどうするもこうするもない。それでも、どうにかしてしまえ、とか言う人もいたけど、別にどうにかしたいとも思わない。まぁ、それほど好きじゃないっちゃ、好きじゃなかったのかもしれないけど、でも、相手にかけらもその気があるとも思えないのに、行動を起こすような考えはまったく浮かばないからねぇ、仕方ない。
まぁ、それが相手に好きな人がいるかどうかも分からない段階だったらどうなのか、その辺が分からないけどさ。そこまでいかないと自分が気づかないんだからねぇ。
しかも、その時期っていうのが、だいたい最初にあったときから1年以上は経ってるんだから、言うこともないやね。

だいたい1年以上も継続して何らかの接点があって、しかも結婚してなくて彼女もいない相手なんか、私の今の状況では絶望的な気がしてきたぞ。
それ以上に、別にそれならそれで仕方あるまい、と思ってる自分が絶望的な気もするけど。

なんにせよ、もうちょっと敏感になって、次の瞬間に備えときますかね。

2005年11月30日

[5周年特別企画 16] 大黒摩季ファンとして

11月も今日で終わり。

摩季さんについては、書きやすいようで書きにくい部分もあり・・・

ってことで、今日のお題は

「大黒摩季ファンとして」(thanks to 治空さん)

最近の摩季さんは、コメントなんかを見ていると、充実して、非常に幸せそうな感じがするねぇ。
それはそれで、もちろん喜ばしいことなんだけど、ファンとして気になるのは、それが摩季さんの作るものにどう影響してくるのか、ってことなわけだ。

その前しばらくの間、ファンの立場から見てるだけでも結構いろんなことがあって、ということは、摩季さん本人からしてみると、もっといろんなことがあって、その中での気持ちの揺れ方は想像以上に大きかったと思う。
そんな中で、摩季さんが自分自身の曲について語るときに、私が「これぞ摩季さんだ」と思ってた”軸”が少しぶれてきてしまってるように感じた時期もあったんだけど、この前のアルバム「Happiness」では、回り回って元に戻ってきたような印象があったので、その点については、ホッとした。
その”軸”というのは、誰のために歌っているのか、何を歌っているのか、のスタンスで、それを表現する言葉が変わってきてるなと思ってたのね。
単に言い回しだけの問題かもしれないけど、心の中にある感情なり考えなりを言葉にするときに、何をどのように言うか、というのは、対象なり相手なりに対する姿勢を表すもので、つまり、その言葉が変化してきたというのは、姿勢が変わってきたということになると思う。
そういう意味でも摩季さんが揺れてるなぁと思ってたんだけど、それが何となく戻ってきてるなぁと。
たとえば、摩季さんのブログで、書かれてるこんな文章とかね。

「素」のまま、私が今に至るまでの「あの日あの時あの瞬間、何を思って何をした~」と綴ろうと思ったのです。 (M'DRIVE:「アルバム“HAPPINESS”発売日」より)

この、”これが私だ”的な発言が、しばらく影が薄くなってた気がしてたのね。
思うに、摩季さんてのは、小説家でいうと、完全なフィクションを書く人ではなくて、私小説を書くタイプなんだよね。SFとかミステリは絶対書かないみたいな。
でもって、その私小説について「これが私だ」と言ってもらうと、そこに共感した”読者”としては救われる部分もある。
そして、それは作者の側から見れば、その物語から読者が読み取った人物像、というものを自分に引きうけることでもあると思うんだよね。作品は何でもそうだけど、自分が意図したように、受け止めてくれるとは限らないでしょ。その受け止められ方の振り幅も含めて引きうけようって覚悟がないと、言えない気がするのね。
少なくとも私にはそう思えたし、その覚悟がすごいなぁと思ってたんだよね。
だから、そういう言葉が聞けなくなってしまうと、何となく不安になってくる部分もある。摩季さん、いったいどこ行くのさ、って。
ただ、その時期でも、その歌詞ではずっと”一人称”だったから、その辺は今の”揺れ”が落ち着けば戻るかなぁという感じはあったけどね。

そんなわけで、その種の揺れは、最近ではあんまり感じなくなったんだけど、個人的に不満なのは、歌詞に迷いがなくなりすぎてることかな。
なんていうか、私のテンションが摩季さんのテンションに追いついてない、っていう。
こっちはまだまだ迷いがありまくりなのにさぁ、なんだよ。とか、まぁ、すねてるだけなんだけど。

それと、摩季さんは、これから何を歌ってくんだろう、ってことなんだよね。
摩季さん自身も言ってたけど、「幸せになりたい」っていうことが大きなテーマだったわけで、実際幸せになったら、何歌えばいいんだろう、ってことには、当然なる。
ライブでは「結婚しても文句や不満はなくならないってことが分かったので」なんて言ってたけど、その文句や不満の内容が問題なのよね。
やっぱり、それは独り身の人間とは、また別種のものであるかもしれないわけで、摩季さんの歌が私小説的である以上、私の共感するポイントとはずれてくことはあり得るわけで。
というか、実際微妙にずれてると思う。
曲自体を好きか嫌いかと聞かれれば好きなんだけど、それは「自分の気持ちにぴったり」という感覚とは、また違うものなんだよね。
まぁ、その感覚が一番強かったのは聞き始めた頃で、今まで常にあったわけでもないし、今だって完全になくなったと思ってるわけでもないからさ。
何より、”大黒摩季”という人の本質が変わってないと思えるので、歌う内容によってファンじゃなくなるということは、あんまり考えてないね。あとは、ほんとに興味があって、「Happiness」でこれまでの総決算みたいな感じがあったので、んじゃ、次何歌うのさ、っていうのを見てる感じかな。

まぁ、摩季さんが思うように活動できて、それなりのペースで、CD出してライブやってくれれば、それで私は満足だね。
もちろん、その中身に関しては、摩季さんと私がそれぞれ違う方に変わっていけば、どっかでファンじゃなくなることもあるかもしれないけど、それはそれだからね。
それより、CD出してライブやって、っていうのが、なんか思うようにできなくなる事態の方がちょっと心配なんだよね。ファンとしては。
CDの売り上げが減ってたりとか、ライブのチケットが余ってたりとか、実際あるからね。それに対してファンのできることって、限られてるとは思うんだけど、私の場合、例え一人でも興味を持ってくれたらと思って、「独りごと」で書いてみたりね。地道すぎる気もしないでもないな・・・。

ってことで、

12月19日武道館ライブ
「大黒摩季2005年冬の大感謝祭 年忘れだヨ!!全員集合=3~全部みせますマキベスト~」
チケット絶賛発売中

要するに、まだ余ってるってわけだ。よろしう。

2005年12月06日

[5周年特別企画 17] 私のホームページ改造計画

「私のホームページ改造計画」(thanks to 治空さん)

このお題については、すべてのお題が終わった後に、スケジュール付で、ある程度きちんとしたものを書きたいと思います。
そのため、一番最後に書かせていただきます。
ご了承ください。


(以下 2006/08/31 追記)

れでぃーす あんど じぇんとるまん
大変長らくお待たせしました。
おそらく、もう忘れられてるかもしれませんが・・・。

思い返せばもう6周年もとっくに過ぎてしまったりするんだけど。
8月31日といえばそりゃもう夏休みの宿題を必死に片づける日、と相場は決まってるわけで、この1年越しの宿題を終わらせるのに最適な日なんじゃないかと。

もちろん、こじつけ。

まぁ、うだうだ言ってるよりも、とっとと行けっていう話だ。

では、CON's World リニューアル計画の発表です(そんな大仰なもんじゃないな)。

の前に、そもそもここしか知らない方のために、一応旧CON's WorldのURLを。
よければ、どうぞ。

http://members.at.infoseek.co.jp/con_r/
CON's World

上のがもともとのとこだけど、移植したのがこっちにあるので、広告がない分、こっちの方が見やすいと思われます。
ただし、どこかで広告が表示されるかも。

http://www012.upp.so-net.ne.jp/con/
CON's World

それでは、改めて。

まずは、リニューアルのポイントから。

・コンテンツの整理
・更新しやすさを向上
・「ことば」を含めたことばを強化。

なんか、もっとことばにこだわったものにしたいなぁ、と思ってるんだけど、その辺はどんだけ更新できるかにかかってるので、とりあえず、気持ちの表明だけ。
ただ、「ことば」だけは強化しようと思ってる。
でも、今URL確認するために久々に昔の見てきたら、やっぱり照れるねぇ。
と言いつつ、それでも強化する予定。

で、最初のコンテンツの整理について。

現状、というか、旧コンテンツはこんな感じ。

・「ことば」
・独りごと
・写真館
・大黒摩季考
・読書日記
・旅行記

1つばかり稼働してないメニューがあるけど、それはなかったことにして。
これを更新具合なんかを考えて、次のように変えます。

・「ことば」
・独りごと
・写真館

うん、シンプルだ。

大黒摩季考、旅行記については、独りごとに統合(カテゴリ化するかは検討)。
読書日記については、アフィリエイトをやってみようとやっている、CON's Laboratoryが最近読書記録用のブログに化してるので、そこで代用。
ここのリンクをたどって買い物すると、私が儲かるのでよろしく。儲けさせたくない人はリンクたどって買い物しないように。

http://consworld.jugem.cc/
CON's Laboratory

それから、更新のしやすさについて。

っていうか、これは見てる人にはまったく関係のない話だよねぇ。
でも、書く。

・サイト全体をブログ化。
・「ことば」の Flash版、テキスト版を作成。

「ことば」の Flash 版については、現状の私の知識では、まぁできるだろう、と言うぐらいしか分からないのだけど、とにかくデータベースと連動させて、縦書きで出力させたいため。テキスト版は、まぁ横書きで許してもらって、他のコンテンツと同じシステムか、Flash版ができあがったら、同じデータベースを使うか、なんてことを考えてる今日この頃。
まぁ、できるかどうかは、私の理解力と実行力にかかってるわけだ。

でもって、たぶん見てる人に一番関係のあるだろう、見た目の部分について。
これが、ほぼ未定だったりする。

ただ、本屋に行って一番気に入った写真集でも買って、それを参考にするか、と行ってみたところ、一番は道の写真集だったので、テーマは

「道」

で行くことに、今のところ、決定。
ただし、見てすぐ道と分かるかどうかは不明。

色使いは未定。

というか、色使いの参考にしたかったんだけどなぁ。道の写真集も買ってないし。
これから考えます。

で、いよいよスケジュール。

全体を3つのステップにわけてみた。

まず、ステップ1・・・の前にステップ0。
パソコンを購入。

では。

ステップ1
・サイト構造(コンテンツ詳細)を決定
・ブログシステムの入れ替え(バージョンもアップ)。

ステップ2
・見た目のデザイン。
・ブログ用のテンプレートを作成。

ステップ3
・「ことば」Flash版作成

ステップ1 9月
ステップ2 10月
ステップ3 11,12月

で作業する予定。
予定は未定、ってことで、長すぎるぐらい長い目でよろしくお願いします。

以上、「私のホームページ改造計画」でした。

追伸。
明日は、お題を書き終えて、ってことで、反省文をしたためようと思います。

2005年12月29日

[5周年特別企画 18] 困っていること

「困っていること」(thanks to 治空さん)

どうにかしなくちゃいけないこととか、なんだかんだといろいろあるけど、なんか、困ってること、っていう表現はなんか違うなぁ。

なんて思ってたんだけど、困ってること、あった。
洋服どこで買えばいいんだろう、ってこと。
いや、洋服売ってる場所は知ってるよ、もちろん。
でも、それぞれ、ブランドにしても、その辺のお店にしても、だいたいの対象年齢ってものがあるじゃん。そういうときに、どの辺のお店で買うと、私の年齢的にぴったりなのか、っていうのが、分かんないんだよね。
カジュアルなものを買おうと思うと、さすがにギャル系は、若かったとしても、趣味じゃないから、そこはまずパスだけど、そうじゃなくても、ちょっと若そうな気もするしなぁ、とか。年齢的には問題なさそうだけど、ここはミセスっぽいよねぇとか。あるいは、いわゆる会社勤めをしてるわけでもなく、キャリアなんて格好をしていくような感じでもないし。
となると、案外分からないんだよねぇ。
もっとも、ジーパンにTシャツぐらいなら、まぁ問題もないんだけど、たまには、ちょっとこぎれいな格好でもしようと思うと、困るんだよね。
たまに、いいなぁって思うと、ケタがひとつ違ったりして、値札見た瞬間にゴメンナサイ、ってなっちゃったりね。

もともと詳しくないからだろうけど、なんかいいのないのかなぁ。
なんか、そこそこ大人っぽく、カジュアルな感じで、だからといって、ミセスな感じじゃなくて、お値段もそこそこで、っていう、ね。

情報、求む。

[5周年特別企画 19] いい女

「いい女」(thanks to Odacchiさん)

いい女、って、そんなもの語ったら、自分のことを棚どころか、天井裏ぐらいまで、いや、屋根の上ぐらいまで上げとかなくっちゃならなそうだけど、いいのかな。
まぁ、なんなら月まで上げとくとして。

いい女ってなんなんだろうなぁ。いい人、と言うとニュアンスが違ってしまうけど、人間としてすばらしいとか、そういうのとは、どこか違うわけで。そういう部分も含まれるかもしれないけど、それだけじゃないしねぇ。

なんだろうなぁ。いい女って。
顔がいいとか、スタイルがいいとか、そんなんだけでもないし、かといって性格がよければそれでいいっていうものでもないだろうし。

そうだな、私が好きな女性の姿というのは、さびしくても苦しくても辛くても悲しくても不安でも迷っていても悩んでいても落ち込んでいても、とにかく、グッと顔を上げて、笑える、そういう姿。あるいは、できなくてもそうしようとしている姿。
そういうのが、すごくカッコイイ。

でも、それは強くあることではないと、思うんだよね。
ただ、感情を抑えて笑うだけだと、蓄積されて、どこかで無理が来る。そうじゃなくて、そういう自分の弱さを全部引き受けて、それでも笑える、これが強いことなんだと思うんだよね。

そういう強さがいいな、と思うんだけど、あんまり人にはオススメできないね。どことなく幸せになれそうにないもん。

で、そうね、いい女とは何か、っていう話ね。私はやっぱりね、容姿も必要だと思うのね。でもって、視線の配り方だよね。こう人を引きつける目線の動かし方ってあるじゃん。
たとえば、杉良太郎さんの流し目とか。・・・って、男じゃん。
まぁ、そんなことね。
それから、内面的には、弱さを知ってる人だね。それでもって、その上で尚、辛いときに笑える。それでもって、その笑い方はにっこり、で。
あぁ、頭はよくないとね。どんな意味でも。

要するに、才色兼備、その上、弱さや痛みを知ってる人ってことか。
・・・難しいな、これは。

[5周年特別企画 20] 子供の頃

「子供の頃」(thanks to Odacchiさん)

どんな子供だったかというと、今とたいして変わってないような気がするんだけど、結構記憶はあいまいで、断片的なものしかない。

ので、ちょっと子供の頃のエピソードを思いつくままに、並べてみようと思う。そうすると、何かしら見えてくるような気がするから。

まず、これは自分の記憶じゃないんだけど、よく母親から聞かされることで、赤ん坊の頃の話。
普通赤ちゃんは、親にだっこされると笑うけど、私の場合、だっこされると泣いて、ベビーベッドに寝かされるとニコニコしてたらしい。

保育園時代の話。

おばあちゃんが生きてた頃、よく聞かされた話。
帰りが遅くなる母親に代わって迎えにきてくれたときのこと。ひとり保育園のホールに残されていた私は、そのど真ん中で大の字になって寝転がっていたらしい。そして、保母(今だと保育士か)の先生が、「ユニークなお子さんで・・・」と言った。

これは前にも書いたことがあるけど、インフルエンザの予防接種のときのこと。
注射をうつ前に、イヤだと泣きわめいて、いざ注射をうつときにはまったく平気だった。

近所のお祭りでのこと。
子どもたちが山車を引いて町内会を回ると、所々でお菓子がもらえる。そのとき、とにかく一番最後に行こうとした。

保育園の頃、なりたかった職業は、小学校の先生。
母親がそうだったから。

小学校時代の話。

たぶん、1年ぐらいの頃、近所の公園で、飴細工の屋台が出てた。
それをずっと見ていた。両親と出かけていたんだけど、私があんまり動かないもんで、私を置いて行った。用を済ませて帰ってきても、まだ見ていた。

これも1年ぐらいの時の話。
練りケシが流行る。その年の誕生日プレゼントに、練りケシをねだる。1個でいいという私に、母親が2個買ってくれる。1個50円也。

またまた1年ぐらいの話。
隣の席の男の子と口論になり、言葉に詰まり、手に持っていた鉛筆で、その子の手を刺す。

同じくそれぐらいの話。
その頃は父親も会社勤めだったため、一番遅くに家を出ていた私。あるとき、ポンキッキを見ていて遅刻。

2年生の1学期末。転校。
そのとき、クラスのみんなにと、おばあちゃんの働いていたところからもらってきた、下敷きを持っていくが、恥ずかしくて渡せず。結局、机の中に手紙と一緒に置いてくる。

2,3,4年頃。
友達に誘われて、サンリオに行って、何かを買ったら、その後、その子のお母さんがうちにやってきて、うちの子供をそういうところに誘うなと文句を言って帰る。
うちの母親は私が、自らそういうところへ行かないことを知っていたので、そのことで怒られることはなかった。

小学校高学年ぐらい。学期替わり。
学級委員を決める学級会。立候補を募ったが誰もいず、その時の学級委員が、目で、やらないの? と合図してきたので、思わず立候補。

小学校5,6年。
代表委員選挙に立候補。2回連続で落選。

同じく小学校5,6年。
あまりに毎日のように学校で泣いていたので、担任に、グッと我慢しなさい、と叱られる。

またまた同じ頃。
何かの事情で、予定されていた席替えが延期。楽しみにしていた私は、かなりの不満顔。先生に「何か不満がありますか」と聞かれる。しぶしぶ「ありません」と答える。

小学校5年? 11才の頃。
つくば万博で、未来の自分に手紙を書く。
2000年、2001年だっけ?、届いたハガキには、こう書いてあった。
「今よりマシになってるかな?」

こんなところかな。いや、まだまだ、時間をかければ思い出すだろうし、中学もあるけど、まぁ、長くもなるし、こんなところで。
なんか、小心者のくせに目立ちたがりで、おとなしくて控えめかと思いきや感情的になると何するか分からないし、優等生だったわりに問題児で、素直かと思うと頑固、というほんとわけ分かりません。
中学までは成績はよく(担任が替わると成績が微妙に下がるんだけど)、先生からの受けは悪くない。学級委員やらいろいろやるが、もともとリーダー的な資質もなく、自分は間違ってないのに、周りが分かってくれない、とどこかで思ってたような気がする。
両親が共働きだから、不安だったりさびしかったり、っていうのはあったと思うけど、それは仕方のないことだと、一方でものすごく醒めた部分もあって、結果として、さびしくないことになっていた。

なんかちっとも変わってないなぁ、やっぱり。

[5周年特別企画 21] 10年後

「10年後」(thanks to Odacchiさん)

10年後というと、私もいよいよ40代に突入してるんだな。
何してるかな。生きてるかなぁ。

したい、したくないに関わらず、あんまり長生きしないだろうから、生きてないかもしれないし。
なんて、思ってるけど、さすがに、あと10年しないうちに死ぬというのは、あんまりいい感じはしないね。
昔、私が子供の頃、うちの母親は、

私、40歳で死ぬから。

と、断言してたな。
そういう親も親なら、私は私で何の疑問もなく、そうかぁ、と思ってたけど。

10年、という年月は、そうだな、それこそ10年ぐらい前は、ずっと遠い、長い年月だと思ってたし、その、さらに10年前は、10年後なんて、今思えば、永遠に来ないぐらい先のことだと感じてた気がする。
でも、今10年後、というのは、必ずやってくるもので、それも、想像以上に早くやってくるものだと、分かっている。

そして、その10年分の変化、というのは、何もしなければ、期待するほど大きなものでもないし、逆に、考えもしないような状況に陥ってることもありうる。
未来は必ずしもバラ色ではないし、同じように、真っ暗闇でもない。

そんなことを踏まえつつ、で、自分はどうなってるか、とか、社会はどうなってるか、とか、その辺になると、正直分からない。

社会のこと、ということになると、ちょっと話が広がりすぎるので、自分のことに限定するけど、ひとつだけ確かなのは、今と同じ生活ではありえない、ってことだね。
どうなるかわからないけど、10年後も父親と仕事をしているというのは、想像しづらい。父親が元気でいてくれるに越したことはないけど、かといって、今と同じように仕事をしているとも思えないし、また、それだけの体力や気力があるにしても、今と同じように会社を維持できるかどうかは、やっぱり疑問ではある。
そういう意味での転機は、この10年のうちの早い段階で必ずあるだろうし、早ければ、今年にでもあると思っている。
そのときに、何をしたいかという問題は、常に私の中にはあって、その辺はもう少し、詰めていかないといけないけど、10年後には、しっかり自分の足で立っている、という感触があればいいと思う。

それから、両親のこと、というのもあって、やっぱり二人姉妹の長女、ということになれば、親に何かあれば、面倒を見なくちゃいけないだろう、という意識もある。
10年後、できれば、元気でいてもらいたいけど、そうじゃない可能性というのは、私以上にあるわけで、そうなったときに、今のままでは支えきれない、という自覚もとりあえずはあるのね。だから、そういう意味でも、ある程度生活の基盤をしっかり作っておかないといけないよなぁ。

あとは、何? あぁ、結婚か。
これは、何にもまして分からないや。
母親はしみじみと、年とって独りはさびしいわよ、と、ほんとに気がかりらしくて申し訳ないんだけど、こればっかりは、ねぇ。

って、どれひとつはっきりしてないな・・・。

まったくもって、10年後のことは何一つはっきりとしてないけど、今度の10年間は、これまでの年月が無意味じゃなかったことを自分自身に証明する必要がある、と思っていて、それができないと、その先の年月をきちんと生きていけないような気もする。
そのために、今まで避けてきたことにもぶつかっていかなくちゃならないだろうし、ぶつかっていけるだけの状況を作っていくことも必要で、ここ1、2年で、それが整えられれば、10年後には笑っていられるんじゃないかと思う。

そのために、今しようとしていることは、出力の方法を変える、ということ。
同じ考え方から導き出される行動は、必ずしもひとつではなくて、同じ考え方から正反対の行動が導き出されることもある。
たとえば、思いは言葉にしなくちゃ伝わらない、という考えがある場合、「だから仕方ないと諦める」のも、「だから言葉にしてみる」のも、純粋に論理としてみるなら、間違ってはいないけど、行動としては真逆になる。
どちらが常にいいとか、悪いとか、そういうものじゃないけど、自分がそうしようとする判断と、別の判断が同じ考え方からできるかどうかを考えることは、今までの自分の行動パターンを崩すには、いいきっかけになるんじゃないかと思う。

あとは、素直になる。
最近ちょっと、精神的に妙なねじれを起こしてて、それで勝手につらくなってたことに気づいたとこがあってさ。表層だけで、自分を変えようとしちゃダメだね。
つまり、こうありたい自分というのがあって、だけど、そうではない自分がいて、そうではない自分を無理やり矯正しようとしてた部分があったのかな。意識的には、そういうつもりはまったくなかったんだけど、結果としてはそうなってたんだね。
だから、素直に、っていうか、なんていうんだろ、たとえば、好きな女の子に意地悪しちゃう小学生の男の子は、その段階で、スカートめくりとか、きちんとしておいた方がいいとか、そういうことね。いや、別に、私はスカートめくりとかしないけど(当たり前だってば)。
うーん・・・自分の気持ちの流れに沿って、進んでいけたらいいのかなぁ。

そうやって、試行錯誤しながら、自分と仲良くなって、10年後に笑えてたら、それでいいかな。
そうなるようにやって行こうかね。

[5周年特別企画 22] ふと幸せを感じるとき

「ふと幸せを感じるとき」(thanks to Odacchiさん)

幸せ、かぁ。なんだろうねぇ。

あの、本屋とか図書館とかで、読みたい本を探してるときは、幸せな感じがするかな。
なんか、こうワクワクする感じがあって、幸せかも。
あとは、手元に読みたい本を何冊か置いておいて、さぁ読むぞ、って瞬間。これも、なんか幸せだね。
あとは、その本が面白かったときね。面白い本を読んでる最中。なんだろ、とにかく続きが読みたくて仕方ないっていう、その感じがいい。

たまにやるのが、休みの前の日なんかに、お酒とつまみを用意して、それに、本を数冊。で、飲みながら本を読む、っていうやつ。
ここのとこは、体がお酒を飲みたい雰囲気でもないので、あんまりやらないけど、ほろ酔いで、本を読むのはなかなか気分がいい。・・・って、すっかりオヤジだわ。
もちろん、あんまり難しい本は読めないけどね。

そうそう、去年、ブックオフが、駅から家までの道のりにできたんだけどね、帰りにやってるとついつい寄ってしまうんだよね。主に買うのは、文庫本と新書。それも105円のね。
105円のコーナーを端から端まで見て、3冊ぐらい、選んで買ってく。
ここのところ、よく読むのが、精神病理(うつ病とかね)、心とかそんなやつ。仕事で関わってるってのもあるし、個人的興味もあるし。それから、哲学っぽいやつ。いわゆる哲学史的なものじゃなくて、哲学入門みたいな、哲学的なものの考え方とか、そういうやさしいの。あとは、もちろん推理小説。まぁミステリってやつね(ちなみに、この種のジャンルの言い方は、微妙に難しいね。一番なじみがあるのは、推理小説だけど、好きなのは、探偵小説ね。なんか、金田一耕助とか、明智小五郎って感じがするじゃん)。あと、なんか国際関係みたいなのも、たまに読むかな。
今年はね、それに加えて、経済分野の本も読んでみようかなぁと。経済関係はまったく疎いもんで、なんかこの先、そういう知識もないと大変そうだしねぇ。株なんかもやる気はあんまりないんだけど、まぁ仕組みぐらいは知っておいた方が便利そうだし。それに、現在の経済システムっていうのは、そもそも永続的に破綻しないシステムなのかどうか、っていう素朴な疑問がちょっと前からあって。なんか常に右肩上がりで成長し続けないと、システムがうまく機能しないようになってるような気がして仕方ないもんで。そんなシステムが機能し続けることが可能なのかっていうのは、気になるじゃん。そもそも、その認識自体が間違ってるかもしれないし。
といっても、本格的に経済学を学ぼうなんて気はさらさらないけど。

でも、最近は、自分が本を読める状況にあるってことが、ありがたいね。まず、本を読もうっていう気力があること、本を読める集中力があること、それから、それを理解する理解力があること。

本を読むには、こういうことが必要なんだけど、結構小さい頃から割りに読んでるほうだから、そういうものって、あんまり意識したことないんだけど、こういうことが、ほんとなくなることもあるんだよね。
本を読む理解力っていうのは、別にそんなにたいそうなもんじゃなくて、たとえば、小説を読むんであれば、そのあらすじを追えるっていう程度のことでも、ないときにはない。そもそも、本を開く気力さえない。
そういう意味でも、本を読めるっていうことは、幸せなことかなぁ、と。

だから、読めるときに読めるだけ、読みたい本を読んどこうと思ってるんだよね。
そこから何かを学び取ろうというんではなくてね、本を読むこと、そのものを楽しめる、っていうことが、やっぱり楽しい。

ちなみに、今読んでる本は、『心のしくみを探る ユング心理学入門2』(林道義、PHP新書)。さらに、ちなみに、1は読んでない。

[5周年特別企画 23] 自分をほめたいと思うとき

「自分をほめたいと思うとき」(thanks to Odacchiさん)

なんか最近、なんでもほめるよ。ほんとちょっとしたことで、ほめまくりだよ。
たとえば、ちょっと体調が悪かったりして、そんなときに1日をなんとか終えたりすると、よくやった、って思うしね。別に、感動はしないけど。

その辺は、自分が世界中で一番最低な人間だと思っていた頃に、そういう状況はいけないってことで、自分を認めていく作業をしなくちゃいけないだろうと。
そのために、どうするかっていうときに、考えたのが、こういうことなのね。自分の理想を基準として、点数をつけていくと、必ずマイナスになるでしょ。理想っていうのは、そこにまだ至ってないからこそ、理想なんだから、それを基準にしたら、まさに減点方式でしかあり得ないわけよ。そのマイナス点をどうしたら、プラスにできるか、というと、昨日の自分を基準に置けばいいんじゃないかと。そうすると、昨日できなかったことが、今日できれば、その分プラスになる。要は加点方式だよね。

てことを考えて、そういう方向で、やっぱりダメだけど、今日はこれができたからまぁいいかな、という感じで、言ってみれば思考訓練みたいなことしてたら、なんでも簡単にほめてしまう、習慣が身についちゃったんだよね。

これもなんとなく、よしあしでね、年々自分に甘くなってる気がして仕方ないんだけどね。それでも、前に進む動力になってりゃいいいけど、なんかね、最悪な状態に陥らないための、つっかえ棒ぐらいのものにしかなってない気が、最近するね。なんか、全体的にはダメだったけど、ここはまぁできたからいいか、みたいな、ものすごく部分でほめてしまうという。
もうちょっと、厳しい基準で、ささいなことでもいいから、目標なり計画を立てて、できたときにほめるとか、そんな感じで、エネルギーのベクトルを変えるようなほめ方をしないとね。

でもやっぱり、自分をほめたいと思うときは、これまでできなかったことができたときと、途中はグダグダでもなんでも、なんとか最後までやり終えたときだよね。
だから、そこを中心として、なんとか、うまくほめてこうかと。

絶対、自分はほめられて伸びるタイプだと思うんだよね。まぁ、そんなこと言ってるようじゃ、大人とも言えないけどさ。だから、あんまり自分しかほめなさそうなとこは積極的にほめていこうかと。ちょっと方法は考えながら。

[5周年特別企画 24] ハマリもの

「ハマリもの」(thanks to かおちゃん)

ハマリものというか、最近、ライブに行ったあとに、なんとなくブログの検索をしちゃうんだよね。
それで、同じライブに行った人の感想を読んで、なるほどねぇ、と思う。
ま、それだけなんだけど。

きっかけは、美里さんのV20だったなぁ。
あれが土曜日で、次の日はもちろん日曜日だから、いつものように学校に行ったんだけど、あの日、朝までカラオケしてて、ほとんど寝ずに行ったもんだから、眠くて眠くて、何もする気が起きなかったのね。だから、ふと思いついて、V20について、行った人が書いてるかなぁと検索してみたところ、案外面白かったのね。
ほとんどの人が、感動した、みたいなことを書いてる中、最後の方はおなかが減った、とか書いてる人がいたりとか。いや、あのライブ見て、感想はそれか、と思いつつ、まぁ、そんな人もいるのか、という。

それ以降、つっても、摩季さんのライブぐらいしか、行ってないけど、行く度に、検索してる。
たとえば、ここ何年か摩季さんのライブでドラムたたいている、真矢さん(元ルナシーの)のファンの人で、摩季さんのライブを評価してくれている人がいてくれたりして、たぶん同じ人だと思うんだけど(いちいちタイトルを覚えてないから確かなことはいえないんだけど)、いつも引っかかる。
この人、前回のツアーでは、確か初日ぐらいに行っていて、いつもの摩季さんのライブのよさがなかったと書いていて、それが、この前の武道館のときは、今回はよかった、と書かれていたり、なかなかよく見ている。ファンじゃない分、冷静だ。

こんな風に、ファン以外の人の反応の方が、実は気になる。
最近は、無料招待、というのも結構出ていて(残念だけど)、それで行った人の感想は、非常に気になる。そういう人が、今度はチケット買って、ライブに来てくれたら、うれしいもんねぇ。
で、総じて評判は悪くない。なかなか楽しめた。とか、まぁ、そのぐらいだけど。

それから、ちょっとした関係者のブログが引っかかることもある。
この前は、摩季さんのヘアメイクをしている人がいる、美容室の人のブログを見つけた。楽屋に行ったときの話とかが書かれてた。

これ見て、どうとか、そういうこともないけど、なんとなく、楽しいんだよね。

それとつながるのかどうか分からないけど、あとは、人のブログとか日記とか読むのも、前は、自分で書いておきながら、ほんとにダメだったんだけど、最近は好きだね。
近頃は、周りにも書いてる人たちが増えてきてるし、RSSリーダーなんていう便利なものもあるから、くまなく見てるよ。
読む気力がなくたって、斜め読みぐらいには、目を通してる。
そこここで、みかけたやつを、そのときの感じで登録して、何で読んでるのか分からないようなのもあるし。ね。有名人のブログも、人によるけど、やっぱり面白いものも多い。
有名どころでは、ヤクルトスワローズの古田選手(監督と書くべきか)は、たぶん野球好きじゃなくても楽しめるね。
ブログの女王、といわれる、眞鍋かをりさんのブログも、読んでみれば思ってたより、ずっと面白い。やっぱり、読まれるにはそれなりの理由があるんだねぇ。
あと、長野智子さんのブログも面白い。取材裏話みたいなものもあるし、その時々で、長野さんが問題と感じてることを分かりやすく書いてあるので、自分も考えるきっかけになる。

・・・有名どこ過ぎ???
まぁ、一応、URLも貼っとこう。

http://blog.so-net.ne.jp/atsuya-furuta/
So-net blog:古田敦也公式ブログ

http://manabekawori.cocolog-nifty.com/
眞鍋かをりのココだけの話 powered by ココログ

http://yaplog.jp/nagano/
長野智子blog


古田さんのは、こちらも一緒に見ると楽しさ倍増。って、これもだいぶ有名だろうな。
http://blog.so-net.ne.jp/junya-yoshida/
So-net blog:吉田淳也公式ブログ


あぁ、そうだ。これも貼っておこうか。

http://blog.livedoor.jp/makiohguro/
M'DRIVE(Maki Log)

摩季さんのブログね。

ハマリもの、ってこんな感じかな。

[5周年特別企画 25] 昨今のキャラクターで思うこと

「昨今のキャラクターで思うこと」(thanks to かおちゃん)

私もたいがいキャラクターとは縁の薄い人生を歩んでるような気がするんだけど、好きなキャラクターとか言われても、思い浮かばないし。
そうだねぇ、これまで好きだったのは、ドラえもんとか、ウルトラマン、あとは、あれ、なんだっけ、あのサンリオで野球とか、サッカーとかもしてたかな、そういうなんか2頭身の男の子のやつ。

ちょっと待ってね。

探してまいりましたよ。サンリオのサイト行って。そのスポーツ少年たちは、ギミー ファイブ、だって。なんかね、学校で作った、オルゴールと、エプロンにその絵を使った記憶があるなぁ。

かといって、別に何かを集めてたわけでもないんだけど。

自分の趣味はともかく、昨今のキャラクターですよ。ね。

さて、そこでキティちゃんに注目。
キティちゃん、同い年なんだけど、未だにキャラクター界のトップを走り続ける、言わずと知れたスーパースター。芸歴30年の大ベテラン。
昔は、キティちゃんといえばキティちゃんで、どこからどう見てもキティちゃん(こんな感じ)だったのに、最近じゃ、どこでもかしこでも着ぐるみ着まくり。
検索してたら、ご当地キティを作ってる会社のサイト見つけた。

http://gotochikitty.com/
ご当地キティのあすなろ舎 子猫屋 WebSite

トップページ見てびっくり、なんとキティ、スキージャンプペアもやってるらしい。
どんな無理難題をやらされているのかと、買いもしないのに、ついついサービスエリアなんかでは、チェックしてしまうんだけど、たまに3頭身になってたりするから、さらにビックリ。あれはもはやキティじゃないんじゃないかと。

この、キティちゃんの芸歴30年にして、ここまで仕事を選ばない、涙ぐましい仕事ぶりから、思うことは、大人向けのキャラクター市場の確立かな。・・・と、難しげなことを言ってみる。

たとえば、このご当地キティ、買うのは大人が中心だと思うんだよね。キティ好きの子供たちに大人が買い与える、ということもあるだろうけど、やっぱりある種コレクター向けだろうと思うし、ひとつひとつの値段はたいしたことはないとは言え、1000種もあろうかという数のものを集めようというのは、子供にはなかなか難しい。

あるいは、リラックマとか、たれパンダといったような、見た目は子供向けでもいいけど、リラックマの人生経験豊富なオヤジのような、含蓄のある言葉に、癒される、なんていうのは、やっぱり大人だろう。というか、あれで癒されると思う子供は、できればいないでほしい。
そういう、根本から大人向けのキャラクターというのが育ってるわけだ。ちなみにnこのたれパンダとリラックマ同じところ(サンエックス)のキャラクターだったりするってのは、有名な話か。

印象としての話なもんで、裏付けなんか何もないけど、私が子供の頃、たとえば、サンリオのキャラクターを大人が集めている、ということは、少なくとも一般的じゃなかったと思う。
だけど、たとえばサンリオのキャラクター紹介にある、一番古いキャラクターは1973年生まれ。キティは74年。ということは、このころ子供時代を送っていた世代からは、小さい頃からキャラクターと一緒に育ってきている、とも言えるわけで、その世代が大きくなったことで、大人がキャラクターグッズを買う、ということにも抵抗がなくなってきたのかなと。
言ってみれば、ジャンプを読んで育った世代が、大人になってもジャンプを買い続けるのと同じようなもんかも知れないね。

・・・って、最初は、最近のキャラクターって設定妙よね、って話をしようと思ってたのに、こんな妙な話になってしまった。

[5周年特別企画 26] 癒されるもの

「癒されるもの」(thanks to かおちゃん)

癒されるっていう言葉を、私自身はあんまり使わないもんで、簡単に、どんなことが癒されるってことなのかっていうのを、まずちょろっと書いておく。

”癒す”という言葉の意味としては、病なんかを治すとか、痛みを和らげるとか、そういう意味だけど、今使われてる意味としては、もう少し広がっていて、なんだろ、私としては、ほぐす、というのが一番近いかな、と思う。
でもって、癒される、っていうのは、ほぐされることによって、気分がよくなる、ということかなと。
たとえば、かわいい子犬かなんかを見て、癒されるなぁ、って言ったりすることがあると思うけど、それは、会社でのストレスとかがたまっていて、それで、心が緊張したり、頑なになっていたりして、それが、子犬によって、その緊張がほぐされる。そのことが実感されることが、癒されるってことなのかな、と。

そんなことで、じゃ、私にとって、そういう心をほぐしてくれるようなものは、何かっていうと、たぶん、海とか山とか空とか川とか、そういう自然の大きいものかなぁと。一番は、分かりやすく富士山かな。あるいは、月とかも、そうだな。
見るの専門だけどね。

時々、気持ちが飽和状態を迎えるというか、心がカチカチに固まってるというか、そんな感じがするときがあるんだよね。そういうときに、ふと富士山を見かけたりすると、あぁ富士山だ、と思って、それでなんか、ふっと気が楽になるんだよね。自分のテンパり具合にもよるけど、案外短時間でも大丈夫なんだよね。

で、なんでか、って考えたときに、思ったのは、富士山なら富士山っていうのは、”いつでもそこにある”じゃない? 変わらずにそこにある、それがなんか安心感があるんだと思う。
富士山は変わらず富士山だなぁっていう、ね。
なんだろ、たとえば何年かぶりに会った友達に、昔と変わらない雰囲気で、再会できた感じに近いかもしれない。

もうひとつ、富士山のこと書くと、よく書くような気もするけど、ジタバタしてもしょうがないなぁっていう、そういう感じがあるんだよね。
逆に、こっちがどうしたって、動じないような雰囲気がいいよねぇ。あれがやっぱりホッとするんだよね。なんとなく。

富士山だけじゃなくて、前にも書いたけど、他の山でも、海でも、川でも、月でも、夕日なんかでも、そうだよね。

あとは、お風呂とか温泉とか。体動かすとか、そうね、おいしいもの食べるとか、・・・いろいろあるけど、やっぱり寝ることだね。
寝不足だと、精神的にも不安定になったりするからねぇ。何かあったら、寝るに限るな。

てことで、癒されるには、景色のいい露天風呂に浸かって、のんびり温泉宿で寝まくるっていうのが、一番かなぁ。やったことないけど。

[5周年特別企画 27] リラックマ

「リラックマ」(thanks to かおちゃん)

リラックマと初めてであったのは、今から1年ちょっと前ぐらいかな。家に帰ったら、クマのぬいぐるみが何個か転がっててね。当時は、名前もなんも分からなかったから、あぁクマだなぁって思っただけだけど、それがリラックマだったんだよね。

それから、あっと言う間にリラックマは繁殖し、どこでもリラックマが目につくようになったねぇ。
私の周りでも、好きだっていって、リラックマグッズ持ってる人が結構いるし、ペットボトルのおまけに付いてたり、本は何冊か出てるし。

このリラックマ、特徴はダラダラしてること。25才OLのかおるさんちにある日突然現れて居候。喰っちゃ寝、喰っちゃ寝、でそりゃもう迷惑なことこの上ない。んだけれども、「まぁそんなにあくせくせずにのんびり行きましょうよ」的なことを言ったりする。
それが、なんかかわいらしい外見と相まって、働く女性たちに、癒される、と大人気らしい。
しかし、ここが一番ミソの設定だろうと思うんだけど、このリラックマ、実は着ぐるみなんだよね。ちゃんと背中にはジッパーが付いてるし、裏地は白地に水色の水玉模様。たまに洗濯して干されてる。

でも、よく考えてみてよ。っていうことは、中に何者かが入ってるわけよ。巷じゃ、オヤジじゃないかっていう説を一番よく聞くけど、何が入ってるんだろうね。
中身について、少し前にテレビ見てたら、平原綾香さんと深田恭子さんが激論してた。リラックマ好きな平原さんは、オヤジが入ってると力説し、寂しがりだから出てこないという。それに対して、深田さんは、オヤジなんか入ってない、と猛反対。
どちらが正しいかはともかくとして、ジッパーが付いてて、たまに本体が干されてる以上、中に何かが入ってるのは、確かなわけだ。

じゃ、何が入ってるかっていうのは、やっぱり気になるよね。
そもそも、一緒に住んでるかおるさんは、そんな得体の知れないもんと一緒に住んでて、気持ち悪くはないのか。しかも、あのリラックマ、身長160cmよ。私ぐらいの大きさあるんだよ。
さらに、気づいたら、コリラックマが増えてるし。・・・キイロイトリはあれか、最初から飼ってたんだっけ? あれだって、単なるひよこかと思いきや、リラックマの大きさと比較するに、結構な大きさよ。

まぁ、確かに見た目はかわいいし、言ってることも、人気があるのも分かるけど、あの得体の知れない設定はなんなんだろうね。
きっと、それがなきゃ、こんなに売れはしないんだろうけど、なんなのかな。まぁ、謎があるってのは、魅力でもあるのか。
まぁ、キティちゃんも着ぐるみ着る時代だからねぇ。あ、もしかして、中身はキティちゃんだったりとか!?

・・・ないな。

[5周年特別企画 28]オンとオフ

「オンとオフ」(thanks to かおちゃん)

これの切替はほんと難しいねぇ。
最近これをきちんとしないとなぁとは思ってるんだけど、苦手項目だわ。

でも、ほんとに、大事なんだよね。
たとえば、効率とか、そういう”世の中的な価値観”を満たすためにも必要だろうし、個人の精神衛生的にも必要だと思う。

たとえば、自分をコントロールできなくなってくると、集中力はないんだけど、一方でやらなきゃいけないのにできてないことが常にあるから、緊張を解けなくなるのね。
ほんとなら、そういうときは何はともあれ、休んじゃった方がいいんだけど、それができない。
そうすると、逆にどんどん疲れていくから、余計にやることできないし、できないからやらなきゃいけないことがたまっていって、さらに緊張感が高まっていく、という立派な悪循環に陥ってく。

これじゃいけないと思うわけですよ。そりゃ、もちろんね。
だから、どうすれば、そのオンとオフの逆転現象が解消されるのかと、思案中。

今、試そうと思ってるのは、まず、睡眠時間を中心に計画を立てるってこと。
寝ないでも平気な人っているから、自分にもできるんじゃないかなぁ、なんて思ってたけど、そこがそもそもの間違いなのよ。寝不足になると、気持ちが不安定になるんだから、とにかく寝るべし。寝られない環境下に置かれてるわけでもなし。とりあえず寝とけ、ってなもんだ。
それに、寝不足が続いて、うつ病になったりすることもあるって言うんだから、寝なくちゃいけないんだってば。
というところに、ようやくたどり着いて、それを実践しようと思ってるんだけど、身についた悪癖は、なかなか治りませぬ。
実践たって、年明けからだから(現在1月9日午前0時半ぐらい)、まだまだなんだけど。

そんなわけで、これをなんとか実践して、様子を見てこうかな、と。

つまり、オフの時間をまず決めちゃうことによって、自ずとオンに入れるような状態が作られるんじゃないかっていう期待なんだけど、甘いかな。

筋肉鍛えるときも、負荷をかけっぱなしじゃなくて、弛緩する瞬間が必要だって言うし、バッティングだって、構えたときから力入ってたら、インパクトの瞬間に力出せないって話だし。
力入れるには、まず、力抜くとこから始めないとね。

とか言いながら、この時間に書いてちゃ、いかんね。

[5周年特別企画 29]行ってみたい場所

「行ってみたい場所」(thanks to かおちゃん)

ここにはずっと沖縄って書くつもりだったんだけどね。この前行って来ちゃったもんで。どうするかな。
まぁ、本島以外は行ってないし、天気もよくなくて曇ってたから、まだ行きたいといえば行きたいんだけどね。

そうだなぁ。基本的には行ったことない場所はだいたい行きたいね。
中でも、たとえばグランドキャニオンは一度見たいし、オーロラなんかも見たいなぁ。あと、ヨーロッパにもいっぺん行ってみたいし、そうそう、インドも一度は行きたいとこだ。ガンジスのほとりに佇まないと。
と挙げればキリがない。

でも、現実的に今一番行きたいところは、八丈島。
友達が、今いて、来年の3月には帰ってきちゃうんで、そうそうに行かないといけないんだけどね。
だけど、寒いんだって。今年は。雪が積もったらしいよ。八丈島にも雪が降るんだなぁってビックリした。でも緯度的には、宮崎ぐらいだとか確か言ってたな。

なんか最近日曜日がなかなか使えないから、泊まりで出かけるの難しかったりする。とか言ってたら、日帰りもできるよだってさ。
まぁそりゃそうかもしれないけど、せっかく八丈まで行って、日帰りっすか。できれば、それは避けたい。
温泉あるらしいし、行きたいね。

2006年08月31日

宿題

待ってもらえていたのかどうか、定かじゃないけど、5周年(いつだ?)特別企画の最後のお題を書き終えました。
取り急ぎ、ご報告まで。

[5周年特別企画 17] 私のホームページ改造計画

やっと宿題が終わった気分。

2006年09月01日

お題を書き終えて

5周年特別企画だったはずのお題をようやく書き終えたわけだけど、その間に6周年が過ぎ7年目に突入してるわけで、お題をくれていたみなさんには、本当に申し訳なかったです。

そりゃもう、反省するべきところがたくさんありすぎて、何から書くべきか困るぐらいなんだけど、こんなに時間がかかってしまった原因は、一言で言えば、自分がやれると思ったこと、で、やりたいと思ったこと、と、その当時の状況で実際にやれることの間に、大きな差があったってこと。それが分からずに実行に踏み切ってしまったのが、最大の敗因かと。

去年は、ホントにふがいなく一年を過ごした感じがあって、ふがいあった一年があるのかどうか、非常に疑問な私の人生の中でも、1、2を争うくらいだったかもしれない。

と言いつつも、ここまで時間がかかってしまったけど、なんとか書き終えられたことに、とりあえずホッとしてるとこもある。

今後やるときには、きちんと自分の状況をふまえて、コンディションの良好なときにやることにしよう。

・・・まだやる気か。

そのときには、もっとずるくやろうと思う。逃げ道をたくさん用意しとく。

最後に、改めてお題をくれたみなさん、ありがとうございました。また、こんなに終了までに時間がかかってしまい、すみませんでした。
今後ともよろしくお願いします。

リニューアル計画も上げたから、なるべくスケジュールを大きく外れないように、仕上げないとな。

About 5周年特別企画

ブログ「CON's World」のカテゴリ「5周年特別企画」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリは独りごとです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.